ブックマーク / anguri-zaurusu.hatenablog.com (6)

  • 「クソゲー」と遊び - 戯れ散歩

    人生はクソゲーだ」という言葉がある。 当に人生がクソなのか、そうではないのか、それはよくわかりません。 しかし、人生をクソゲーとして置くと楽ではあると思う。 逆に、人生が神ゲーだったとすると、文句が言えなくなってしまう。 何か嫌なことがあったり、自分の失敗なんかも、全部自分のせいとなってしまいます。 神ゲーというのは面白いと同時に、なにか重さ、しんどさというのも感じてしまう時があります。 実際、無性にクソゲーにハマってしまう時期があります。 「クソだなぁ」と思いながら、やめずに黙々と続けてしまう。 そこにはクソゲーだからこその心地よさがあります。 自分がクソだと認めているものに腰を下ろすからこそ、そのクソの中での自分の行為は空っぽとなり、からっぽだからこそ何も考えず、何も期待せず、ある意味肩の荷を下ろして現実逃避ができるのです。 そう思うと、「クソゲー」というのも悪くないものです。 な

    「クソゲー」と遊び - 戯れ散歩
  • 「いい理由」を持つ - 戯れ散歩

    当たり前なんですが、物事なんでも理由がないと動けないものです。 私たちがご飯をべるのも、トイレに行くのも、遊びたいのも、理由があるんです。 だから、生きていることにも、自分の存在価値にも理由を欲してしまうのでしょうか。 そう、逆に言えば「理由さえあれば、なんだってできる」とも言えます。 どんな残虐なことでも、なにかちゃんとした理由があれば人はやれてしまう。 そう思うと、「なにをするか」を考えるより、それを「する理由」を考える方がいいんじゃないかと思う。 ただ、理由はなんでもいいというわけではない。 自分が心の底から納得できる理由でなければならないし、なにより「どのような理由を持つか」でその人というのは決まってしまうものだったりする。 たとえ、同じことをしていたとしても、それをただ「やらないと怒られるから」という理由でやるのと、「こうするとどうなるか興味が沸いたから」という理由でやるのとは

    「いい理由」を持つ - 戯れ散歩
  • 「自分と他人」と遊び - 戯れ散歩

    サッカーにおいて、そのフィールドの中で駆け回っている自分というのは紛れもなく「自分」だ。 そして、その周りの他プレイヤーは「他人」であろう。 しかし、自分のチームメンバーというのは、「他人」であるが「自分」でもある。 自分のチームがゴールを入れれば自分ごとのように嬉しいし、逆にゴールを入れられてしまったら自分ごとのように悔しい。 ボードゲームにおいて、そのゲームをしている私自身というのは紛れもない「自分」で、そのゲームを一緒にしている対戦者たちは「他人」であろう。 しかし、たしかにボードゲームには勝ち負けがあり、相手プレイヤーというのは自分にとって敵であるが、その関係が当に啀み合い始めたらおそらくボードゲーム をやめてしまうだろう。 お互いが勝利を求めて切磋琢磨し合うのだが、その中でのメンバー同士でのやりとりを楽しむというのが、ルールには書かれてはいないけれど一番重要なのでしょう。 そこ

    「自分と他人」と遊び - 戯れ散歩
  • 「リセット」と遊び - 戯れ散歩

    もしも、子供時代に戻れるとしたら、もう少しちゃんと勉強したかったな。 部活も、変に堅苦しくやってたけど、もう少し気楽に楽しめたんじゃないかな。 しかし、いくら考えても子供時代には戻ることはできない。 けれど、遊びの中でなら、いつもで最初からに戻すことができる。 ボードゲーム人生ゲームだって、例えルーレットの出目が悪くて借金だらけで終わったとしても、もう一度最初から、やろうと思えば始め直すことができる。 過去の反省を活かし、より良い人生を歩むチャレンジをすることができる。 逆に言えば、リセットがされることを知っているからこそ、気軽にかつ純粋にそのゲームを楽しむことができるとも言える。 リセットがあるからこそ次があり、今の結果を受け止め、ゲームを終わらすことができる。 リセットがあるからこそ、現実ではやらないようなおふざけやビックなチャレンジを、遊び心をぶつけられる。 「リセット」というのは

    「リセット」と遊び - 戯れ散歩
  • 「広がり」と遊び - 戯れ散歩

    遊びには「しまり」というのは大切なんだろう。 自由と謳って、ただユルユルのものを渡されても、それをどう戯れていいのかプレイヤーはピンとこない。 「なんでもできる」というのは、「なにもない」と変わらないのである。 プレイヤーをプレイヤーたらしめるために、なにを、どのように、どうするのか、具体的にかつ、わかりやすく提示しなければならない。 そこには鋭いコンセプトによる、しっかりと、はっきりとした「制限」が必要なのである。 しかし、ただただ狭めるだけでいいわけでもない。 その戯れ、遊びに「面白そう」と感じたり、夢中に取り組めるのは、しっかりとした隔離・制限があると同時に、それが広がっていく「可能性」がある、それを感じれることも大切なのではないだろうか。 例えば、SNSとかの面白さというのは、一つに自分の投稿は「もしかすると」バズったり、他の多くの人たちに注目される「かもしれない」。 例えそれが難

    「広がり」と遊び - 戯れ散歩
  • 「紙」と遊び - 戯れ散歩

    私はやっぱり紙に向かってペンを走らせて絵を描くことが好きだ。 絵じゃなくてもいい、文字とか、ただの線とか、とにかく何かしら書き込むのが面白い。 よく使っている紙はA4のコピー用紙だ。 しかし、時々コピー用紙のあの真っ白な色が眩しくなってしまって嫌になる時がある。 あのコピー用紙のツルツルした面に腹を立ててしまう時がある。 だから最近、わら半紙も買ってみたんです。 わら半紙のあの柔らかな色合いとザラザラした質感はいいですね。 安心感がある。 安心して、そこに書き込むことができる。 描くのは楽しいと言ったけど、実は怖いものでもあるのです。 ある意味、何もない純粋な白面を「汚す」ようなものですから。 それが例え消せるものだとしても、完全な白面に戻ることはないのです。 だから、あんまりその緊張感を感じないように、純粋な白さや清らかなツルツルとした質感より、多少もっさりとした感じがいいのです。 その

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