演奏家のいないスタジオ風景 横浜郊外の仕事場にて 「最近の若いやつは、ドラムスの音を生で録ったことがないんですよ」と、ベテランの録音技師は僕に言うのだった。いまではコンピュータでドラムの音を再現するのが常識で、スタジオに楽器を用意してそれを録音する光景は、あまり見られなくなっているのだという。まあもっとも、バンドのやつらだって自分では演奏出来ないんだからおあいこなんですけどねと、彼は苦々しく笑った。僕はその事態がどうにもうまく呑みこめず、他の楽器はどうなっているのかを、彼に訊いた。すると、僕が無知なだけなのかもしれないが、驚愕すべき答えが彼から返ってきた。 「たとえばギターの高音弦がフレットと擦れて、きゅんと鳴る音があるじゃないですか。あれはどうするんですか」 「ああそれはですね、音がもうコンピュータに入っているんです」 「……低音弦を指が擦っていくときの、ごりっとした音もあ
無駄な相手の尊さ 横浜郊外の仕事場にて 心が徹底的に追い詰められたときに、それをいっときはリリースする(解きほぐす)ための会話を持てる人物が、自分には何人いるだろうかと考える。咄嗟に思い浮かぶのはせいぜいが2人か3人、急に電話などをしても赦してくれるだろうというところまで範囲を広げても、おそらく10人はいない。基本的には日々を自分ひとりで過ごし、終始無言のまま、パソコンに向かっている。 精神的なSOSをほぼ無条件で受け容れてくれる相手が、現状としては2人か3人という数字が少ないのかそれとも意外に多いのか、それは僕にはよくわからない。そもそも人数の多寡で判断すべきものではないかもしれない。しかし確実に言えることは、そのたった2人か3人がひとりもいなかったとしたら、いまの自分はどうなっていたかわからないということだ。精神状況の悪化はそのとき免れ得ないだろうし、それでも自分をぎりぎりに守る
今日もまたダウンロード 横浜郊外の仕事場にて 若い知人が「いまって、こんなものまで違法でダウンロード出来るんですよ」と言って、携帯型のゲーム機を開いて見せてくれた。そこには彼が無料で(ようするに違法で)ダウンロードしたソフトが映し出され、メニューを付属のペンでクリックすると、「宮澤賢治名作集」なるものが現れた。試しに「グスコーブドリの伝記」を開いてみると、明朝体の見やすい文字が両側の画面に広がった。 「出版業界も、これではお手上げでしょう」と、自分の違法行為をどこか勝ち誇るかのように彼は言った。僕はそれに対して、困るのは出版業界ではなくソフトの製作会社であり、何であれ作品が読まれることじたいは善とするべきだと答えた。かくも多くの人間が、勝手にしかも無料でソフトを手にすることが出来る事実を伝えたかった彼は、いかにも納得のいかない顔をしていた。どうやら彼は、「本を買わずに得をした」と
時間を延ばす 横浜郊外の仕事場にて 楽しく過ごしていると、あっという間に時間が経ってしまうと言われるけれど、それは逆なんじゃないかと僕は内心ひそかに思っている。引き締まった時間は実は本人のなかで延びており、弛んだ意味のない時間ほど、気づかないまま短く縮んでしまうのだ。 たとえば先日、久しぶりに深い読書をした。時間の合間を見つけては、少しずつ読みかけの本を進めるという悪い習慣がついていたので、深い読書がもたらした久々の充実感に、それなりの時間が経っているはずだと僕は感じていた。それくらいに満足のゆく読書だった。しかしその体感時間は、僕の完全な勘違いだった。時計を見てみると、1時間しか経過していないのだ。「この質の高い1時間は何なのだろうか」と、我ながら感銘を受けてしまうほどに、その時間は充実したまま自分のなかで引き延ばされていた。 ところがその逆にインターネットで調べ物をしていた
本の旅 自宅にて 2008年(あぁ、ほんとに!)もすでに10日が過ぎました。 この正月には、リビングを少し模様替えして、新しい本棚をセッティングしました。もっとも、手狭なスペースゆえ蔵書を十分に収容することができず、割に読み返す頻度が高かったり、最近買ったり読んだりしている本だけ選んで並べている状況です。とはいえ、本の並べ替えというのは頭を悩ませながらも楽しい作業です。 さて一方、僕らのNPOが昨秋のイベント会場に使った函館市内の施設(函館市地域交流まちづくりセンター)には、イベントスタッフとして手伝ってくれた大学生のE君の手によって「ブッククロッシング」の本棚ができました。ブッククロッシングは、もともとアメリカ人の男性が2001年に始めた、本を旅させるプロジェクト。自分の本を「わざと」公園のベンチやカフェのテーブル、列車の中などに置いておき、それを手にとって読んだ誰かがまた別
原発としょうがない 自宅にて 新潟でまた地震がおこった。 中越沖地震と名づけられたその地震で 柏崎の原発が(今のところ大事ではないようだが) 結構アブナイことになったらしい。 「活断層を見逃してた」とか「想定の震度を越えていた」とか いろいろな議論が交わされているけど、 見てて気になるのは原発問題に漂う「しょうがない」という空気だ。 「そりゃあ原発は危険だけれど、みんなも便利な暮らししたいんだから、 資源のない日本としては原発はしょうがないでしょ」という空気だ。 防衛大臣は原爆のことを「しょうがない」と 口に出して言ったから問題になったけど、 原発の人たちも口には出さないけど、きっと防衛大臣以上に 心の中で「しょうがない」と思ってる気がする。 ボクは本来「しょうがない」とか 「ま、いっか」という諦観がキライじゃない。 物欲や色欲や健康欲や様々な欲に固執する
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