田中正造は、天保12(1841)年11月3日に栃木県佐野市小中町こなかちょう(旧旗川村はたがわむら)で、旗本六角家の名主である富蔵とみぞう、サキ夫妻の長男として生まれた。名主になった正造は、不正をはたらく領主と対立するなどの苦難を乗り越え、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。 明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山あしおどうざんの鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。しかし国の政策に改善が見られず、ついに明治34(1901)年12月10日、天皇に直訴じきそした。 その後、鉱毒事件は社会問題にまで広まったが解決せず正造は悲痛なおもいで谷中村やなかむらに住み、治水の名のもとに滅亡に追い込まれようとした谷中村を救おうと、農民とともに村の貯水池化に反対し再建に取り組ん