親日に関するskv101のブックマーク (2)

  • 私たちの先人は大東亜戦争を戦ったのです

    先の大戦について肯定的に語ることがタブーのような空気に包まれている日に於いては、日人自身のそういった発言はすぐに色眼鏡で見られ、レッテル張りされてしまいます。そこで外国人の意見を集めてみました。 H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者) 「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」 アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者) 第二次大戦において、日人は日のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点

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    skv101 2009/07/25
    日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
  • エルトゥールル号遭難者救助一世紀にわたり語り継がれたトルコの思い:イザ!

    エルトゥールル号遭難者救助一世紀にわたり語り継がれたトルコの思い 当時、トルコと日の頭上には、帝政ロシアの南下政策があり、ともに脅かされていた。1887(明治20)年、後に陸軍元帥となる小松宮彰仁親王夫は、トルコ(オスマン・トルコ帝国)を訪問し、国王のアブドゥル・ハミト二世に会見した。その返礼として、国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする609人の使節団を、新生日に派遣した。 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1889(明治22)年7月、イスタンブールを出港。航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受け、11ヶ月をかけて翌1890年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として日

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    skv101 2009/07/18
    朝日新聞の罪
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