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ブックマーク / www.a-saida.jp (2)

  • [解説] 大阪造幣局でのロシア貨幣の製造

    ページを閉じる ロシア革命の貨幣史 大阪造幣局でのロシア貨幣の製造 1904~1905年の日露戦争を契機として、それまで対立していたロシアと日の関係は一転し、 1907年には日露協約が締結され、数度に及ぶ条約の改定を経て両国は急速に接近していた。 このような日露関係の下に、1916年にはロシア政府は自国の低額面貨幣の不足に対処するため、 額面 15 および 10コペイカの2種類の補助貨幣の製造の一部を日政府に依頼した。 当時大阪造幣局では " 甚だ繁忙を極めていたにもかかわらず、この貨幣の製造も急を要する とのことであったので、残業や休日出勤をしてこの注文に応じた。 (造幣局百年史)" 大阪造幣局が製造した 15コペイカ銀貨と 10コペイカ銀貨 (1916年) 貨幣の極印はロシア政府提供によったものを用い、ペトログラード造幣局で製造していたものと 全く同様であったが、ロシア製のものには

    smicho
    smicho 2012/04/03
  • 第一次大戦下の通貨事情 ロシア革命の貨幣史

    2. 第一次大戦下の通貨事情 1914年7月20日 (8月2日)、ロシアドイツに対し宣戦を布告した。このドイツとの開戦は、 外敵の侵入に対して祖国を防衛することで、期せずして国民を団結させ、 ロシアの国内は愛国的興奮に包まれた。 大戦勃発後直ちに政府は戦時緊急通貨対策を決定し、7月27日 (8月9日) には 資の国外逃避を防止するため金兌換を停止するとともに、国立銀行に対して 国家信用券 (国立銀行券) の無準備発行限度額3億ルーブルに加え、更に 12億ルーブルを追加している。 これによって国立銀行は金準備を伴わずに15億ルーブルの信用券を無準備で発行できることになった。 また、国立銀行に短期国庫債券の割引を行うことを義務付け、金準備以上に発行される紙幣は、 国立銀行で割引く債券を保証として行われることになった。 国立銀行は次第に国庫の分局としての色彩が濃厚となってきたのである。 第一

    smicho
    smicho 2012/04/03
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