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ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (5)

  • 恐山あれこれ日記: しとしとぴっちゃん

    しとしとぴっちゃん 久々に禅問答をひとつ。 ある雨の日、老師が修行僧に問いました。 「門の外の音は、何だ?」 「雨だれの音です」 すると老師は言いました。 「およそ人は錯覚してさかさまに考え、自分に迷って物をおいかけているな」 「では、老師、あれは何の音ですか?」 「おっと、もう少しで自分に迷うところだった」 修行僧はさらに問います。 「もう少しで自分に迷うところだったというのは、どういうことです?」 老師はおもむろに答えます。 「解脱してさとりの世界に入ることは簡単だが、それをそのまま言葉で言うのはむずかしいな」 さて、この問答、例によって解釈は様々でしょうが、私はこう考えます。 一般に「あれは何だ?」という問い方と、それに対する「あれは〇〇です」という答え方は、「あれ」と指示される「対象」がそれ自体で存在していて、それを眼や耳などを通じて感受した自分が、「精神」を正しく使用して、対象の

  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その4

    弔い問答 その4 『月刊石材』掲載、青森県青森市・やまと石材社長の石井靖氏によるインタビューのご紹介、最終回です。 □仏教との出会い 石井社長(以下、石井) 話を戻しますが、子どもの時に世の中に不安を持たれて、そこから国語の教科書でしたか、「諸行無常の言葉、このもやもや感はこれだ」という話を少しお聞かせいただけますか。 南直哉(以下、南) その通りだったですね。要は、自分の感じていることが人に通じることなのかどうなのか、全然わからないわけですよ。小学校の高学年あたりから、「異常なのかな」という感じがしていたんです。異常というか、何か孤立している感じをずっと持っていたんです。 石井 ご自身で「こう感じているのはどうも自分だけ」という感覚…。 南 だいたい同級生の中に、「三ヵ月入院しました」「小学校、丸1年くらい休んでます」などというのは、私しかいないわけです。そうすると、自分が考えていること

  • 恐山あれこれ日記: 弔い問答 その2

    弔い問答 その2 前回に続き、『月刊石材』誌に掲載のインタビューを紹介します。聞き手は青森市・(株)やまと石材社長の石井靖氏です。 □「これはサービス業だ」 石井社長(以下、石井) ちょっと安心しました。まさに私たち石材店ごときが言うことでもないし、お客さんにとっては、「大きなお世話だ」という話なんです。お墓作りをさせていただく中で、お寺様とお客さんの中間の立場にいると、「お寺様ももう少し工夫したほうがいいのに」なんて…。 南直哉(以下、南) 石材屋さんも葬儀屋さんと同じと考えれば、お寺さんとネットワークを組んだ方がいいと思いますね。お互い情報を流したりすればいいんです。たとえば葬儀屋さんが都会でお葬式を頼まれたら「あのお坊さんはいいよ」と。お坊さんが仏壇屋さんを頼まれたら「あそこは正直だよ」と。お互い袖の下ではなくて、信頼関係をもてる人間でネットワークを組めばいいと思うんです。 石井 も

  • 恐山あれこれ日記: 年の終わりに

    年の終わりに 今年亡くなった著名人に、落語家で人情噺の名人と言われた三遊亭円楽氏がいます。彼が生前、インタビューに答えてこんなふうに言っていました。 「落語家の道を選んだという、自分の選択がよかったな、間違いなかったなと思えることが、嬉しいですね」 うらやましいなあ、と思いました。 私が仏門に入ったのも完全に自分の選択ですが、それは、いろいろと道はあろうが、中でもこれが一番やりたいことだからやってみよう、、、というのとは違いました。 私の場合は、もはや他に望みをつなぐ術がないという、消去法の結果による選択だったのです。その意味では、修行僧時代に何事も夢中でやっていた頃、「直哉さんは、生まれながらのお坊さんだよね」などと言われたときには、相手が好意から言ってくれるのがわかっていても、苦笑いせざるをえませんでした。 そういう極めて覚束ない足取りで歩き出した道を、今なお歩んでいられるのは、周囲の

    smocchan
    smocchan 2009/12/31
  • 恐山あれこれ日記: 雪深し

    雪深し このところ、青森県は連日大雪。5年前にむつ市に生活の拠地を移して以来、12月のこの時期、これほど毎日雪が降るのは、私もはじめての経験です。というわけで、毎朝5時半起きで雪作務(ゆきざむ・禅道場では雪搔きをこう呼ぶ)です。福井もずいぶん降ったようですから、年末年始に帰ったときには、しっかり雪作務に励まないといけないかもしれません。 禅寺では、「一作務、二坐禅、三看経(いち・さむ、に・ざぜん、さん・かんきん)とも言い、道場生活を支える労働が、修行として非常に重要視されました。これは、僧侶の労働を原則として禁じるインド仏教とは大きく異なる、中国禅仏教における新機軸です。 この労働に宗教的な価値を見出すという考え方には、インド仏教に比較して、人間の存在と現実世界のあり様をずっと肯定的にとらえる、中国の思想・文化のスタイルが影響していると言ってよいでしょう。 私もまた、中国的な発想とはいさ

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