→紀伊國屋書店で購入 「この本は、歩きしゃべり耳を傾ける「書物」である」 「書物」のことをあまりになにも知らないし、買って読んだ本のこともほとんど頭に残っていないし、それでいったい私は「本」の、何がどう好きだというのだろうと思うのだ。それでもやっぱり「書物」についての本は手元にしたくて、そしてたいてい読み終えたある時に、静かに後ろ手で書斎の扉を閉じられるような、そんな気分が残るのだ。 今福龍太さんの『身体としての書物』も、もくじに並ぶアルドゥス、ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサンなどの文字や、表紙カバーの袖に刷られた《世界のなかに私が住むこと。そして世界のなかに書物が存在すること。この二つの事実の偶然の関わりをめぐる、限りある消息をさまざまに探求することが、本書のテクストとして再現された講義の目的であった。》にたちまちひかれてページをめくる。 だが読み終えて聞こえてきたのは扉を閉じ