ネトウヨの詭弁についての分析と覚書 (ネトウヨだけではないが‥)。 命題[1]:ある事実が「存在」する事の厳密な証明は(数学等を除いて)出来ない。 ↓ 何故なら「存在」を証明する証拠が捏造されたものではない証拠を出す事は 不可能だから。つまりほぼ全ての物の証明は厳密な「証明」でなく粗い証明の 「疎明」である。 ↓ そして「捏造されていない」という事の証明や証拠は出せない。何故なら 「(捏造)されていない」事の証明であるので「無い事を証明する」作業が 必要になる。つまり悪魔の証明だから。(相対性理論でさえ正しい証拠は 山の様にあるが相対論が正しい事を「証明」する事は不可能である。 相対論の正しさを証明する実験結果が捏造されたものではない事を証明する 事は不可能だから) (上記の命題[1]の具体例) ○○新聞「従軍慰安婦の強制性の証拠をQ氏が新たに発見」 ↓ ネトウヨ「その証拠が捏造でないとい
左右に分かれた分かれ道. どちらか一方は正直村に通じ,もう一方は嘘つき村に通じている. 正直村の住民は正直なことしか言わず,嘘つき村の住民は嘘しか言わない. わたしは今正直村に行こうとしている.しかしどちらが正しい道なのか分からない. 一人の男が道の分岐点に立っている. この男が正直村の住民なのか嘘つき村の住民なのかは分からないが, どちらかの住民だというのは確かである. わたしは男にこう質問した. 「あなたは左と右のどちらの道から来ましたか?」 わたしは確信していた. 仮に正直村が右の道から行けるとしよう. 男が正直村の住民であれば,正直村がある方の「右だ」と答える. 逆に嘘つき村の住民であっても,嘘つき村がある方の「左だ」と答えず,結局「右だ」と答えるはずだ. つまり,男がどちらの住民かは関係なく,答えそのものが正直村へ行くための答えになるのだ. 「わたしが来た道は右の道です」 男は左
拙著へのamazonレビューで,ダメな議論で示したチェックポイントが伝統的論理学における虚偽論とかぶっていると指摘いただきました.おはずかしながら,虚偽論(誤謬論)というものを知らなかったのですが,なんというか僕の言ってることがまるっきりピント外れというわけでもなかったんだなぁと安心(?)しました. 1.定義の誤解・失敗はないか 2.無内容または反証不可能な言説 3.難解な理論の不安定な結論 4.単純なデータ観察で否定されないか 5.比喩と例話に支えられた主張 以上のうち、 1.は虚偽論で「先決問題要求の虚偽 petitio principii」 2.は同じく「語彙曖昧の虚偽 fallacia equivocatio」 3.は「不当理由の虚偽 fallacia propter non causam」 4.は「一般化の虚偽」もしくは「論証不足の虚偽 non sequitur」 5.は「比喩の
楽しむYahoo!ブログの作り方♪のOYAJIさんは、僕が問題視しているチェーンテキスト記事の中で、自分の記事を転載して貰いたい理由として、「少ないながらこれで命が救える可能性がある」と言うようなことを挙げていました。 また、現在は削除されていますが、 万が一、この情報が誤った情報であったり イタズラや、ガセネタである可能性も否定は出来ませんが たとえそうであったとしても、私はブログ上で謝罪する事しか出来ません。 むしろ、イタズラであって欲しいとも思います。 とも書いていました。 この記述がどうして削除されたのかは分かりません。 そして、件の記事がアップされてから一ヶ月近く経過した現在も、文科省に送られたいじめ苦による自殺予告手紙の差出人が自殺したニュースなんてものは届いてきませんし「ネットの善意がいじめ問題を克服した!」という美談を伝える報道もありません。 僕個人的には「やっぱりイタズラ
三浦俊彦が描いたオッカムの剃刀の説明図[1]。三浦はオッカムの剃刀について「ある事実Pを同様に説明できるのであれば仮説の数(または措定される実体の数)は少ないほうが良い」とするものだと説明した。 オッカムの剃刀(オッカムのかみそり、英: Occam's razor、Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことで有名になった。 もともとはスコラ哲学における流儀であり、様々なバリエーションがあるが、20世紀にはその妥当性を巡って科学界で議論が生じた。「剃刀」という言葉は「説明に不要な存在を切り落とすこと」を比喩しており、「説明するために必要以上に多くの仮定を用いるべきではない」や「説明する理論・法則は比較的に単純な方がよい」などの意味で使用されることが多いため、オッカムの剃刀は
★クリティカル・シンキングとは何か? Critical Thinking(CT) 批判的思考 --ものごとを鵜呑みにせず,自分の頭で,しかも,きちんしたやり方で考えること-- これが重要だということは誰でも知っているし,多くの教育関係者が主張している。 問題は,それが具体的にはどのような考え方なのかを明示し,どうすればそれが可能かを 考えること。 「情報の活用」ということに関連づけて言えば,「メディア・リテラシー」の中核的要素。 また,「異文化理解」「環境教育」「福祉」等の「総合的な学習」の主要な柱にも適用可能。 ★クリティカルという言葉の語源 クリティコス(ギリシャ語:分ける,決める) クリティカル (1)批評,批判 (2)揚げ足取り,ケチ付け(ネガティブな意味での批判) (3)重大な,決定的な (4)臨界の クライテリオン--診断,分類の基準 ・狭い意味でのクリティカル・シンキング--
人は証拠や論理よりも、自分の信じたいことだけ信じる、という話の別例。 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。 しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。 主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。 たとえば『日本大百科全書』にはこうある。 「温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼(ししよう)化して売春した」 『大辞林』にはこうある。 「江戸時代、市中の湯屋にいた遊女」、 『岩波古語辞典』だと「風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女」。 「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは「娼婦」を意味する名詞なのだ。 ただし、昔から風俗においては初潮前の少女は見
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