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山本七平bot @yamamoto7hei 1】~前略~S中尉は暗い顔で言った。「戦争は員数じゃないんだが……」と。だがその言葉には諦めに似た響きがあった。S中尉の言った「員数」という言葉にはその原意とは違った、軍隊内でしか通用しない独特意味があった。一応これを「員数主義」と言っておこう。<『一下級将校の見た帝国陸軍』 2012-05-28 02:56:48 山本七平bot @yamamoto7hei 2】このイズムは、もうどうにもならい宿痾、日本軍の不治の病、一種のリュウマチズムとでもいうべきもので、戦後、収容所で、日本軍壊滅の元凶は何かと問われれば、殆どすべての人が異口同音にあげたのがこの「員数主義」であった。 2012-05-28 03:26:31 山本七平bot @yamamoto7hei 3】そしてこの病は、文字通りに「上は大本営より下は一兵卒に至るまで」を、徹底的にむしばんでい
CIAは第2次世界大戦中に敵国にスパイを潜入させて、組織が機能しなくなるよう工作活動を行っていました。その中でも、「Simple Sabotage Field Manual」と呼ばれる極秘マニュアルには、組織を機能不全に追い込むためにはどのように行動するべきかという「組織の癌」とでも呼ぶべき愚者の心得が説かれており、ここには時代を問わず多くの組織で反面教師とするべき含蓄があります。 CleanedUOSSSimpleSabotage_sm.pdf (PDFファイル)https://www.cia.gov/news-information/featured-story-archive/2012-featured-story-archive/CleanedUOSSSimpleSabotage_sm.pdf Read the CIA's Simple Sabotage Field Manual:
第二次大戦時、アメリカと日本の国力には12倍の差があったと言われる。巨大な敵に、先人たちは本気で勝てると考えていたのだろうか。戦後70年のいまこそ、昭和陸軍の「戦略構想」を問い直す。 カギを握る4人のエリート 「満州事変以降の『昭和陸軍』をリードしたのは陸軍中央の中堅幕僚グループ『一夕会』。満州事変の2年前の1929年に結成されました。メンバーは東条英機、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一ら約40人。 一般的には東条が日本を破滅に導いたように思われていますが、昭和陸軍の戦略構想を立てたのは永田と、石原、武藤、田中の4人。東条は彼らの構想に従って動いたに過ぎません。 永田を中心にした彼ら4人とも、単なる軍事エリートではなく、当時の日本社会では知性と教養を併せ持つ知的エリートでした。戦前の陸軍は何も考えずに暴走したと思われがちですが、そうではなかったのです」 川田稔・名古屋大学名誉教授はそう
2013年06月13日08:00 『八甲田山の惨劇』 行軍開始30時間で発狂者が続出、210名中199名死亡 惨劇は何故起きたのか? Tweet 1: シャム(東京都):2013/06/12(水) 23:22:48.22 ID:3TLcAt9Q0● 【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】 (9)「八甲田山の惨劇」はなぜ <一部抜粋> 実は明治35(1902)年1月末の八甲田山も、 北海道の旭川で氷点下41度という日本の最低気温を生んだ寒波に襲われた。 そしてその酷寒の地で日本の山岳史上や軍事史上に残る惨事が起きた。 山麓を「雪中行軍」していた将兵199人が死亡したのである。 遭難したのは陸軍第8師団に所属し、青森市に駐屯していた歩兵第5連隊の将校、 下士官、兵卒ら210人の雪中行軍隊である。 屯営を出発したのは1月23日の朝だった。東側の山麓を抜け、 三本木(現十和田市)まで約50キロの道
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