ブックマーク / call-of-history.com (4)

  • 「交路からみる古代ローマ繁栄史」中川 良隆 著

    「すべての道はローマに通ず」の言葉通り、ローマ帝国は最大版図五百万平方キロメートルもの広大な領土に十五万キロメートル(うち八万キロメートルは舗装道路)ものローマ街道が張り巡らされていた。ローマ帝国はその広大さ故に隅々まで行き渡る水陸の交易路を使ったヒトと物資の移動流通網があって初めて成り立っていた。書はシビル・エンジニアリング(土木技術、構造工学などの総合的な概念)の観点から、ローマ帝国を支えた陸の道と水の道を解説した一冊である。著者は工学博士。 目次 第一部 すべての道はローマに通ず 第一章 ローマ街道の意義 第二章 ローマ帝国以前の諸外国の道路網 第三章 ローマ街道を使った国家統治・防衛と旅の安全・楽しみ方 第四章 ローマ街道の建設技術 第二部 河川・海上交通がローマの繁栄をもたらした 第五章 何を、どこから運んだのか 第六章 船と運航者 第七章 航海で必要なインフラ(港と灯台、地図

    「交路からみる古代ローマ繁栄史」中川 良隆 著
  • 由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    徳川家一門松平定政の乱心慶安四年(1651)四月二十日、三代将軍家光が死に、老中堀田正盛・阿部重次を始め多くの家臣が殉死し、あるいは隠居・出家して一線を退いた。 同七月九日の三河刈谷藩主松平能登守定政・定知親子の出家もその流れかと思われたが、少々様子が違った。定政は徳川家康の異父弟松平定勝の六男で、徳川家一門に連なる二万石の大名であった。定政は出家して「能登入道不白」と号し、現在の老中たちでは世が乱れると語り、老中井伊直孝に自身が見た夢を書き連ねた文書を送りつけ、「天徳大居士」と号して江戸を托鉢して回って人びとを驚かせた。七月十八日、幕府は定政を狂気として改易、兄の伊予松山藩主松平隠岐守定行に預け蟄居とし、この騒動は終わった。 彼が言いたかったことは、人びとが困窮しているのに幕府はその救済を全く行おうとしない、自分の二万石を例えば五石ずつ分ければ四千人に分けられる、自分が二万石の禄をむよ

    由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    spike_komainu
    spike_komainu 2015/06/26
    「阿部忠秋や井伊直孝の見識の高さの方が特筆されるべきで、間違いを素直に認めてそれに同意する酒井忠勝や松平信綱の懐の深さも流石と言って良い。」由比正雪の乱(慶安の変)と江戸時代前期の牢人問題
  • 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

    先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。 1853年7月12日1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。そ

    幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
    spike_komainu
    spike_komainu 2015/06/11
    ”黒船来航をソフトランディングさせることができた要因の一つに、このような飲みニケーションがあった” 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
  • 「古代天皇家の婚姻戦略」荒木 敏夫 著

    古代天皇家の婚姻の特徴はその強い閉鎖性である、ということを様々な史料を元に当時の東アジア諸国の婚姻関係との比較も交えつつ大局的に描いた一冊。一言で言うと「お兄ちゃんだけど政治目的さえあれば関係ないよねっ」って話(たぶん)。 倭・日の古代王権は濃密な近親婚によって強い結束力を保とうとした。皇族男性は外部からキサキを迎えることはあっても、皇族女性が非皇族と結婚することはほぼ無く、皇族女性は皇族男性と婚姻関係を結ぶという婚姻規制が存在していた。その特徴は、一つに異母兄弟姉妹婚による同世代婚、もう一つがオジ―メイ婚・オバ―オイ婚による異世代婚である。 六~八世紀を通じて、歴代天皇のキサキを整理するとその多くが異母姉妹か、畿内の諸豪族、一部のほぼ限定された畿内の外(「外国(ゲコク)」)の諸勢力から女性がキサキとなっていることが書で明らかにされている。 例えば天智天皇の子女四人の皇子と十人の皇女の

    「古代天皇家の婚姻戦略」荒木 敏夫 著
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