「どこまで東京」id:dokomadetokyo というよりは、ブックマークコメントを見ていて思いだした話。 以前ちらっと書いたことだが、わたしの母方の祖母は神田の出だった。紺屋町の染物屋の娘で、それなりの店構えではあったらしい。山形は鶴岡から丁稚奉公に来た祖父が暖簾わけして、御徒町の竹町に洗張屋を出したのと、一緒になった。祖父は仕事が丁寧で、下谷警察署の署長さんの仕事もしていた、仲人もしてもらったのだとか元気な頃自慢話をきいたことがあった。 戦争でその小さいながら静かな生活が一変した。まずクリーニング用の機械などの金属用品が供出でなくなった。空襲が激しくなって、みなは祖父の実家に疎開した。祖母にはつらい時代だったらしい。そうして戦争が終わって、家は実は焼けていなかったにもかかわらず、一家は行き場を失った。 疎開中に誰かよその人が入り込んでいたのだ。 当時の東京であるから、土地は地主のもの