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ブックマーク / reminder.top (10)

  • 元祖ゴスロリ「ストロベリー・スウィッチブレイド」花とリボンと水玉衣装

    花とリボンと水玉の頃、ストロベリー・スウィッチブレイド 花とリボンと水玉のあの頃-- 「コンサートやライブに行く時は、その演者に精一杯のリスペクトと愛を込めて着飾るのが礼儀」と母から教育され、それを信じて若い時から実践してきた。 1986年3月、私と友人はダンス用品専門店で試着を繰り返していた。ストロベリー・スウィッチブレイドのコンサートに着て行く衣装を探すためだ。 友人曰く「あれはどう見てもフラメンコの衣装だから買った方が安上がり」と提案され半信半疑で店内を見ると、確かに水玉だらけ!花だらけ! キラキラとヒラヒラの宝庫だった。ベテラン店員さんに雑誌の切り抜きを見せると、あっと言う間にコーディネートが完成。 長身の友人はジル役、私はローズ役だからスカートをミニに丈詰めし、花とリボンと水玉の衣装で中野サンプラザのストロベリー・スウィッチブレイドの来日コンサートへ向かった。 いたる所でかかりま

    元祖ゴスロリ「ストロベリー・スウィッチブレイド」花とリボンと水玉衣装
  • 水戸華之介が覗いていたもの、アンジー「天井裏から愛を込めて」

    先日ママ友たちの飲み会であるママが、「うちの旦那、油断すると股間をいじっている」と文句を言っていた。それを聞いた他のママが、あれは男の人、落ち着くらしいよ、と言っていた。体の一部をさするという行為は、落ち着かせてくれるホルモン、「オキシトシン」の分泌を促すそうで、緊張をほぐし、不安を和らがせることができるというのだ。逆に女性が股間をいじって「落ち着く」かと言えば、落ち着かないよね、と笑いながら、私は往年の「ポコチンロック」のことを思い出した。 「ポコチンロック」、それは1988年4月、ロックバンド・アンジーのボーカル水戸華之介が青森の弘前市民会館のステージ上のMCで「神の啓示」を受けて突然創設したロックジャンル。ひと言で何だか言えない、その「目に見えないけれど真実」みたいなロックムーブメントの意義に共鳴した筋肉少女帯、LÄ-PPISCHら、またバンドだけでなく個人の賛同者も得た。「外国支部

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  • 横浜銀蝿完全復活!生涯現役ツッパリの人生哲学 ①

    来年2020年、結成40周年を期にあの横浜銀蝿が、「横浜銀蝿40th」として完全復活する。1983年の解散以来バンドを離れていたリードギター Johnny 参加のニュースも含め、9月14日に正式に発表された。全国紙の全段ぶち抜き広告など、華々しいアナウンスを目にした人も多いだろう。 今回の復活発表にあたり、週刊プレイボーイ誌にて4人のインタビュー記事を書いた(取材記事は現在発売中9月14日発売特大合併号に掲載中。WEBでも近日掲載予定)。なんと39年前、横浜銀蝿を初めて取り上げたメディアが1980年9月30日号の同誌だったのだそうだ。 横浜銀蝿と言えば、1980年代前半の不良・ツッパリブームのど真ん中にいたロックンロール・バンドだ。いかにもアウトローという、リーゼント、サングラス、黒の革ジャン、白いドカンという暴走族スタイルなのに、誰もがとっつきやすい人気バンド。 小学生時代、掃除の時間に

    横浜銀蝿完全復活!生涯現役ツッパリの人生哲学 ①
  • ヒルビリーバップスの宮城くん、51歳になったきみの歌を聴きたかったよ

    7月の終わりに実家から戻ったら宅急便が届いていた。ユニバーサルミュージックの封筒から出てきたのはCDとDVDの2枚組『HILLBILLY BOPS 30th ANNIVERSARY COMPLETE BEST』。あっという間に時間が巻き戻る。 ヒルビリーバップスは永瀬正敏のバックバンドを探す過程で見出されて、86年4月にデビュー。もとはゴリゴリのロカビリー・バンドだったが、ボーカル宮城宗典の声質とルックスから初期チェッカーズやC-CーBのようなアイドルバンド的な売り出し方をされた。プロデューサーはかつてRCサクセションを手掛けていた森川欣信氏(現オフィスオーガスタ社長)。その縁で忌野清志郎からも可愛がられ、2ndシングル「バカンス」は清志郎の詞曲だ。 私が彼らを好きになったのは少し遅くて、87年に入ってからだと思う。原稿を書かせてもらっていた雑誌に記事をねじこみ続け、87年10月からテレビ

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  • 爆裂都市から飛び出したバトル・ロッカーズ、脊髄反射の「セル・ナンバー8」

    リマインダー主催で行われた「博多ビートパレード」@スポットライト新宿は大盛況。私も年甲斐も無く楽しませてもらったが、やはり「博多縛り」故に重複して何度も同じ曲がかかる場面があった。その中で一番多くかかったのが「セル・ナンバー8」。映画『爆裂都市 BURST CITY』の中のバンド、バトル・ロッカーズの曲だ。 大音量でイントロがかかったら身体は脊髄反射。10代の時から一番カッコよくて大好きなバンドが30年以上経っても全く色褪せたりせず、むしろ今でも新宿に劇中のライブハウス20000Vが在る錯覚さえ引き起こした位の臨場感だった。 ーー 81年夏の終わりだったと思う。私は表参道で怒っていた。 実は私、『爆裂都市』のエキストラのオーデションを、今は無きダイナマイト・プロダクションで受け、年齢をサバよんで18歳設定にした書類で一次審査を通過した。大好きな石井監督の作品、ロッカーズとルースターズ、それ

    爆裂都市から飛び出したバトル・ロッカーズ、脊髄反射の「セル・ナンバー8」
  • 阿佐ヶ谷のリッキー「トゥ・マッチ・トゥ・ヤング」が僕をオトナにした

    におけるクラブカルチャーの始まりと言われているのが、原宿にあった『ピテカントロプス・エレクトス』。音楽プロデューサーであり、スネークマンショーでも知られる桑原茂一氏が82年にオープンした店だ。 ここから約5年後、フリーフード、フリードリンクのディスコが衰退。音楽が細分化され、クラブカルチャーが隆盛を極めていく。 当時、ロック系のイベントをウリにしているクラブはいくつかあった。ピテカン無きあとにできた『クラブD』、下北沢にあった『下北ナイトクラブ』(後のZOO)や西麻布の『328』がその代表格だ。 中央線の阿佐ヶ谷駅からほど近い場所にも一軒のクラブがあった。店の名前は『リッキー』。しかし、クラブと呼ぶには少し寂れた佇まいだった。建付けの悪い木製のドアを開けると、爆音のロックンロールが炸裂する。軋むような階段を下ると、薄暗い店内、椅子とテーブルに囲まれた小さなフロアがあった。 オーナーの名

    阿佐ヶ谷のリッキー「トゥ・マッチ・トゥ・ヤング」が僕をオトナにした
    stonedlove
    stonedlove 2017/11/25
    阿佐ヶ谷「リッキー」、先輩に連れられて一度だけ行ったことがある。クールでヤバい店だった。
  • 言語化されたパンク、批評を通じて生まれた「20センチュリー・ウーマン」

    音楽批評なんてやって誰が読むの?」、「音楽なんて “感じる” ものなんだから小難しいこと言ってんじゃねえよ」という反知性主義こそがパンクなのだとしたら、そんなものは犬にわれてしまえ、そう思わせてくれる傑作ガチパンク映画に出会った。マイク・ミルズ監督の最新作『20センチュリー・ウーマン』だ。 1979年のサンタバーバラが舞台で、ドロシアという20年代生まれのお母さんと15歳の一人息子ジェイミーの関係を中心に、その二人を取り巻く間借人やら友達やらとの交流を通じて形成される(擬似)家族の物語。 その年その場所で、実際に鳴り響いたであろう(ポスト)パンクの名曲が映画全編を彩り、それがとにかくカッコ良い。トーキング・ヘッズの「心配無用のガヴァメント」がオープニングで聞こえてくる。いみじくもトランプ政権誕生と公開時期が重なったこともあって、かなりアイロニカルなメッセージ性を放っている。 この映画

    言語化されたパンク、批評を通じて生まれた「20センチュリー・ウーマン」
  • 原爆オナニーズが好きなあの人は言った “自分だけのアティチュードを持つこと”

    脳天をかち割られるような衝撃、the 原爆オナニーズ 5歳上のOLだったユカさんとは、パンク雑誌『DOLL』の友達募集欄で出会った。高校生だった私にとって、初めての “年上の友達” だった。 当時私は高校2年。日のパンクバンドを聴き漁った挙句、「the 原爆オナニーズ」にたどり着いた。バンドの名前に衝撃を受けた以上に、サウンド、そして当時はアイドル的なパンクバンドもいた中、ゴリゴリの大人のおじさんたち(…に、見えた)が気でオリジナルパンクを演奏している様に、脳天をかち割られるような衝撃を受けた。 しかし女子校で進学校、まわりには原爆オナニーズのギグに一緒に行ってくれる友達もおらず、DOLLに “原爆オナニーズが好きな方、友達になってください” という募集を出したのだ。 ペンフレンドは、古着のジャケットにドクター・マーチン すると、“原爆オナニーズは知りませんが、オナニー大好き!” とか

    原爆オナニーズが好きなあの人は言った “自分だけのアティチュードを持つこと”
    stonedlove
    stonedlove 2017/06/23
    いい。グッとくる。
  • さらばできない青春の光「ブラボー ジョニー」は今でもハッピーエンド

    高1の時友人が、ある男子校でバンドをやっていたイチロー君を紹介してくれた。彼はライブで対バンできる高校生を探していた。バンドを始めたばかりだったが、すぐに会った。 彼はボーカルで、日のパンクバンドのコピーをやっていた。私もラフィン・ノーズやブルー・ハーツが大好きだったので意気投合、すぐにつきあい始めた。 彼とは、放課後に御茶ノ水で会うことが多かった。駿河台下の「ジャニス」という貸しレコード屋を教えてくれて一緒に行った。御茶ノ水は定期券内だったので、デートがない日もジャニスに通った。ジャニスには、今思えばびっくりするようなパンクのレア盤のレコードがレンタル品としてぽんぽんおいてあった。 そこで見つけたのがKENZIのLP、『BRAVO JOHNNYは今夜もHAPPY END』だった。ぬいぐるみを片手に持った、破れたジーンズをはいたイカレた目つきの男がこっちを見て笑っていた。少しイチロー君に

    さらばできない青春の光「ブラボー ジョニー」は今でもハッピーエンド
  • 大事なことはだいたい坂本龍一の「サウンドストリート」に教えてもらった

    1980年、小3の頃、テレビで「ライディーン」を聴いて文字通り雷に打たれたような衝撃を受け、YMO を知った。叔父に浅草松屋のレコード売り場で、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のカセットテープを買ってもらった。 何度も、何度も、聴いた。YMO の3人の中で、坂龍一を一番好きになった。渋くて繊細で、誰とも違うように見えた。好きになったものの、買っていた『平凡』や『明星』に YMO の情報は載っておらず、なすすべもなかった。 それが1981年の小4のある日、父の FM雑誌で、坂龍一がラジオの音楽番組の DJ をやっていることを知った。その番組は、1978年から1987年まで NHK-FM で放送されていた『サウンドストリート』(サンスト)。彼の担当は火曜日だった。 放送開始時間は、22時を過ぎていたため、父のお古の SANYO のラジカセに、ピンを刺すタイプのアナログな AKAI

    大事なことはだいたい坂本龍一の「サウンドストリート」に教えてもらった
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