2019年9月22日のブックマーク (2件)

  • 「臨界」の残像:(上)タブーだった被ばく医療 当時の医師「人命軽視だった」 教訓生かされたか | 毎日新聞

    の原子力産業で、初めて被ばくによる死者が出たのが、1999年に起こったJCO臨界事故だった。この20年の間に、福島第1原発事故も発生。二つの原子力災害から浮かび上がる課題を追った。 ×   × 「バシッ」。99年9月30日、核燃料を加工していた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で異音とともに青い閃光(せんこう)が放たれた。その瞬間、放射性物質のウラン溶液を扱う作業中だった社員の大内久さんと篠原理人(まさと)さんの体を、強烈な放射線が通過した。 核分裂が連鎖的に続く「臨界」状態が生じ、放射線を遮るものがない「裸の原子炉」ができあがっていた。被ばくした大内さんらを治療したのが、東京大病院で救急部・集中治療部長を務めていた前川和彦さん(78)だった。「やけどの専門家である私でさえ、毎日驚くような患者の変化だった。治療は海図のない航路だった」

    「臨界」の残像:(上)タブーだった被ばく医療 当時の医師「人命軽視だった」 教訓生かされたか | 毎日新聞
  • 朝鮮人犠牲者追悼のウラで行われた「虐殺を否定する」慰霊祭(安田 浩一)

    大相撲で知られる両国国技館から所方面に向かって歩くと、緑の木々に囲まれた公園にたどり着く。都立横網町公園(東京都墨田区)だ。 敷地の一角に置かれた鉄の塊は、1923年(大正12年)に起こった関東大震災による火事で溶解した機械類である。焼け焦げて原型をとどめない鉄の塊は、この場所で起きた惨状を物語る。 かつては旧日陸軍の被服廠(軍服などの製造工場)があった場所だ。96年前、ここを公園に整備するための工事が行われているさなか、震災が発生した。公園として機能する前のただの空き地に、震災の火の手から逃げてきた人々が殺到した。住宅密集地のなかに設けられた広大な空き地だ。避難場所として、そこが適地であると彼らが判断したのも当然だ。 しかし、それはさらなる悲劇の始まりとなった。強風で煽られた炎は巨大な竜巻となって、避難民の衣服や持ち込んだ家財道具に飛び火した。四方から襲った火煙に、人々が飲み込まれた

    朝鮮人犠牲者追悼のウラで行われた「虐殺を否定する」慰霊祭(安田 浩一)
    stratos1976
    stratos1976 2019/09/22
    共産党の志位氏へのリプで「なかったこと(慰安婦や虐殺など)をあったことにする方が歴史修正主義だろ」みたいなのが複数あって、新しい例文が下りてきたのかな、と思った。