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ブックマーク / note.com/ganrim_ (4)

  • 【しらなみのかげ】 文系の学問はカルトか #14|雁琳の『晦暝手帖』

    今日は1月10日、十日えびす大祭の日である。 京都には勿論、日三大えびすの京都ゑびす神社がある。 周知の通り十日えびすは、家運隆盛と商売繁盛を願って縁起物を求める日である。私の親が商売をやっている関連で、博多の十日恵比寿神社には何度も家族で十日えびすに訪れた。熊手やお宮の形をした貯金箱等の縁起物を、籤で引き当てる形だった様に記憶している。 商売という程のことを出来ていない私がえべっさんに行って意義あるものかと思ったりもする。とは言え縁起は担いでおくに越したことはないし、えべっさんは普段の生活圏の中にあって遠い所でもないので、明日にでも訪ねたい。 扨、今日はそのめでたい日に縁起でもない様な話でも書いておきたい。 それは、或るツイートを見て考えた、文系の学問とイデオロギー的政治運動の関わりについての話である。これは結構重要な話だと思うので、走り書き的覚書として、記しておきたい。 そのツイート

    【しらなみのかげ】 文系の学問はカルトか #14|雁琳の『晦暝手帖』
  • 「セックス ・ポリティックス」に「健康で文化的な最低限度の「性的」生活」を奪われているのは誰か|雁琳の『晦暝手帖』

    欲、性欲、睡眠欲は人間の三大欲求であると言われている。三大欲求と言われているならば、これだけは人間として満たされるべき欲求であると考えられるだろう。つまりは、基的人権の範疇に属するものとして考慮されるべきものだろう。人間の生きる基は寝であるから、欲と睡眠欲は満たされることが人権として当然保証されている。ところが、性欲はどうだろうか。  現代では「性の自己決定権」のような形で性の自由権は保証されるべきだとされているが、それが満たされるべき欲求であることが人権によって保証されているという話は聞いたことがない。三大欲求の中で性欲だけが、それが満たされるべきであるという権利は存在

    「セックス ・ポリティックス」に「健康で文化的な最低限度の「性的」生活」を奪われているのは誰か|雁琳の『晦暝手帖』
  • 「性政治」の支配−「政治的に正しい自由恋愛」という名の権力の現代的形態について|雁琳の『晦暝手帖』

    先日書いた記事(以下参照)を、多くの方に読んで頂いた。憲法25条の生存権の規定にある「健康で文化的な最低限度の生活」という文言を捩ったタイトルを付したこの文章では、欲、睡眠欲と共に人間の三大欲求に数え上げられる性欲をも或る種の生存権として考えてみるとすれば、現代日のセックスを巡る「格差」はどう考えられるかについて考察した。この議論をめぐってTwitterでも様々な反応があったので、稿では改めて論じ直してみたいのである。 Cf.「「セックス・ポリティックス」に「健康で文化的な最低限度の「性的」生活」を奪われているのは誰か」 ちなみに「セックス・ポリティックス」というのは、人間の性をめぐる有形無形の事情が政治問題として争われる事態のことを指している。先に引用した文章では特に具体的な形として、例えば#Metooに代表される如く、男性と女性の間に権力勾配があるということを前提として、女性側か

    「性政治」の支配−「政治的に正しい自由恋愛」という名の権力の現代的形態について|雁琳の『晦暝手帖』
  • 「歴史家達の闘い」についての雑感|雁琳の『晦暝手帖』

    最近、主に歴史学周辺で「知識がない人の自由な発想」の問題が大きな論議を引き起こしているようである。一躍ベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書、2016年)をはじめ、多くの専門的な啓蒙書を上梓している気鋭の日中世史研究者の呉座勇一氏(国際日文化研究センター助教)は、百田尚樹氏や井沢元彦氏、或いは久野潤氏や八幡和郎氏といった、歴史学者ではないが歴史についての通俗書を執筆している著述家達と日夜論争を繰り広げている。「戦う歴史学者」と呼ばれる呉座氏は、妥協なく徹底的に、非学問的な議論を斥けている。その論戦に、一躍ベストセラーとなった『観応の擾乱』(中公新書、2017年)を著した日中世史研究者の亀田俊和氏(国立台湾大学助教授)なども参加し、戦線は拡大の一途を辿っているようである。 それは一言で言えば、史料を厳密に読解することで最も確実であると思われる事実を精査することを自らの任とする専門の

    「歴史家達の闘い」についての雑感|雁琳の『晦暝手帖』
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