太平洋戦争中、高級品だったイチゴが不要作物とされ、栽培が制限されたという歴史を知る人は意外に少ない。全国有数の生産量を誇る栃木県の元職員の男性が今春、こうした経緯を自ら調べ、一冊の本にまとめた。十三年間かけて、県内各地で八十人以上から証言を得た。イチゴを育てただけで弾圧されたという信じ難い出来事が、戦後七十年の今、戦争の愚かさを伝える。 (大野暢子) 栃木県都賀(つが)町(現栃木市)の男性は、戦前から戦中にかけ、観光イチゴ園を営んだ父親の記憶を語ってくれた。約百四十アールで露地栽培し、春から初夏にかけての収穫期は、入場料三十銭で園を開放。電車の中に園のポスターを張るなど、東京向けの宣伝にも力を入れ、一日に最大約三百人が訪れた。 しかし、太平洋戦争が激しくなると、食糧増産のため、行政がコメや麦の生産を奨励するようになった。男性の父親は、県の役人に「(イチゴの苗を)即刻抜いて、麦を育てろ」と非