もうだめだと思っても、人生は終わってくれない もうだめかと思っても、転換の転機は訪れない もう少しというささやきが、この身を呪う声にも聞こえ もう少しという絶叫が、きっかけへの気付きを目くらます
もうだめだと思っても、人生は終わってくれない もうだめかと思っても、転換の転機は訪れない もう少しというささやきが、この身を呪う声にも聞こえ もう少しという絶叫が、きっかけへの気付きを目くらます
そんなところで「日○教」とか持ち出すから、またぞろあいまいな概念が裏側から補強されて延命されてしまうのであって、反信仰の徒としてはこのような不用意な言動は、寝言ポエムであると、それ以上でもそれ以下でもないと指摘しておかねばならない。 個人的に「blogでコメントすること」と「はてなブックマークでコメントすること」の違いが分からない。 import otsune from Hatena - 「はてなブックマークのコメント欄が酷いのは許せない」と批判する人がいるのは日本教という宗教に反しているからだ。と解釈できそう しかも、このリンク先の核は上記のように、ブログとブックマークという「レベル設定」の問題に対する指摘である。 タイトルに課された「日○教という宗教」という概念については、それが何であるかほとんど言及されておらず、よくわからないながらも確実に存在する何かというような「印象論」でもって、
mumurブログ:犬の頭部不法投棄事件の容疑者 「犬の肉を他の肉に混ぜて売っていた」 ここ(↑)は基本的には嫌韓ネットウヨのすくつなんだけど、なんだけど、時としてコメント欄には意外に冷静な人が多かったりする。 まあもしかすると、「焦っているだと?私は冷静だ…!」という類の冷静さ*1なのかもしれないけれどもそれはさておき。 このニュースのポイントが「その肉を口にしていた人が、犬肉を食っているという自覚があったのか否か。」(<<参考>>)というのはもちろんである。 が、もうひとつのポイントというのがここだ。 伝統的に仏教を信奉した日本では、肉を食べ始めたのは1868年の明治維新以後だった。しかし仏教の輪廻説を根拠に人間のすぐ次の段階である犬の肉は、どんな場合も口にしなかったし、甚だしくは江戸時代には犬を神さまと信奉して幕府が毎年多額の税金を投じて迷い犬を保護し、犬を虐待した飼い主を流刑に処する
The Movies - The French Democracy via:天神茄子:読書でもするか - アレクス・チャンから始めて。。。 「このロクでなしのクズ供が!」→「言いがかりの差別だ!」→「なぜ肌の色が違うだけでこんな扱いを受けるのか」→「「ロクでなしのクズ」だから差別されるだって?」→「じゃあ、本当の「ロクでなしのクズ」が何をするのか見せてやる!」→「皆さん、やはり彼らはロクでなしのクズ供なのです」 いかなる場所のいかなる規模のものであろうと他人事ではない、普遍的な構造を持った問題であることは確かだ。 もしかすると、犯罪者というのは、こうした偏見に基づいた「期待された役割」を無意識的に成就するがために行動してしまっているという面があるのかもしれない。 つまり、犯罪への敷居を下げるのは、アニメやマンガやゲームなどという「わかりやすい外部の異物」などではなく、人間の内面に存在する意
「薄く・軽く・明るく」 ――これが大学のサークルに代表される若者集団内で、メンバーに求められる性質のすべてである。 私もかつて「それ」だけを求める、「それ」だけが求めらる空間に身を置き、「それ」になんとか身を合わせようとし、そして、どうしようもない吐き気に付きまとわれていた。 思春期が、社会人としての頭ごなしの洗礼を受けなれば終わりを告げないのに関わらず、その人間として当然の苦悩を抱えながら、持て余しながらも、それを表に現すことが何にも増して「最低・最悪の烙印」を押される空間。 ――これは80年代の亡霊なのか。それとも消費至上主義社会の逃がるべからざる歪んだ宿命なのか。今日もまた広告から放たれるきらびやかな光線が、若者の影を色濃く映している。 だが、どうだろう。そもそもの話、果たして「正義」は我の手にあったのだろうか。もし、自らの苦悩が「影」であるのだとするならば、先ほどの三原則を裏返しに
美徳の不幸 - 「通俗道徳」の遵守と「裏切られ感」 ここから僕がふと思い出したのは、例えば斎藤環氏の「引きこもりは一般に真面目すぎるくらいの人」であるという説明だ。引きこもりや、場合によっては一部のフリーター、NEETにも、もしかしたら、なお*1と同様、道徳律に裏切られたという感覚があるのではないか?「学校で言われたとおり、真面目に真面目にやってきたけど、ちっとも幸せではない」という「裏切られ感」が払拭しがたく彼らの内面に浸透しているのではないか?だからこそ、彼らにはなかなか、「こちらの世界」(まだ、建前としては通俗道徳の世界だ)からの「説得」が届きにくいのではないか。 やっぱりこういうことだろう。 しかし、どちらにしても――まじめさを突き詰めた先にあるものも、まじめさが否定された先にあるものも――内面=宗教へと傾斜していくというのはあまりにも「救いがない」話だ。 ――そう、宗教に救いはな
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