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ブックマーク / kaie14.blogspot.com (7)

  • 超自我の核は女性器である

    実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。 これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère.  ]… 父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique

  • 蚊居肢

    スコット・リッター@RealScottRitter 2024年8月25日 ウクライナは、ロシアを交渉のテーブルにつかせる手段として、モスクワとサンクトペテルブルクを攻撃すると脅している。 ロシアは、核弾頭または通常弾頭を搭載できる極超音速滑空機「アバンガルド」を保有している。 アバンガルドはさまざまなミサイルプラットフォームから発射できる。 迎撃はできない。 通常弾頭は音速の27倍以上で標的に衝突し、実際の弾頭が爆発する前に21トン以上の高爆発に相当する爆発を起こす。 もしウクライナロシアの2大都市を攻撃することを決めたら、その結果ウクライナがなくなっても驚かないでほしい。 そして、もしNATOがそのような攻撃を支援するならば、アバンガルドがヨーロッパに到着しても驚かないでほしい。 通常弾頭であることを祈るだけだ。 アメリカとヨーロッパにとって、狂人の狂気の沙汰の行動を助長することほど、

  • アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方

    ラカンの『アンコール』の第八章の冒頭にある図だが、--何度眺めても、不思議な図だ。Φ、対象a、S(Ⱥ)とあって、一番肝腎なS(Ⱥ)が想像界から象徴界の矢印の場にある。ラカンは(わたくしが読むかぎりでは)、『アンコール』でたいしたことを説明していない(《S(Ⱥ)にて、私が示すのは、〈女〉の享楽以外なにものでもない》(アンコール、p78)だって? そんな類のことはどうでもいいさ)。 ラカン派の連中も第七章の冒頭にある「性別化」の式は腐るほどの説明があるのに、この八章の図に触れている人は、ほとんど見当たらない(わたくしが探してみるのは英語文献の範囲だが)。 ジジェクさえ、90年代初頭にミレールに依拠して、わずかな説明があるだけだ(参照:「アンコール」における「サントーム」の図)。かつまた最初期(1987)には、想像界→象徴界にあるS(Ⱥ)(〈他者〉の享楽)は、ミステリアスだとかなんとか言っている

    アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方
  • 「一の徴」日記②

    「一の徴」日記 にて引用した、同一化セミネール9 にはこうあった。 われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug(一の徴)に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。(ラカン、セミネール9) そしてセミネール17 からも引用した。 ・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」

    「一の徴」日記②
  • 享楽への道とは死への道(ラカン)

    享楽への道とは死への道でもある(ラカン、セミネールⅩⅦ) ――とは正確には、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (S.XVII)である。 人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。(同セミネールⅩⅦ) S・シュナイダーマン(『ラカンの《死》』)曰く、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ、--とは、「ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女

    享楽への道とは死への道(ラカン)
  • 「前意識は言語のように構造化されているが、無意識はそうではない」

    ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とは物表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。(Quoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005) 彼がいつからこのように言い始めたのかはーーすこし調べてみたかぎりではーー判然としない。ただし、グリーンの発言の注釈者の論文のなかで、次のような叙述を見出しはした。《Si le préconscient peut être structuré comme un langage, ce ne peut donc être le ca

    「前意識は言語のように構造化されているが、無意識はそうではない」
  • プリゴジンの爪の垢

    いやあ、またどっかの科学系らしき「馬の骨」がなんたら言ってくるが、ようするにおまえさん、徹底的にマヌケなんだよ。ウンコみたいな無知野郎だな、ま、世界はそんなヤツばかりのことは知っているが。 ①科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。… ②宗教は、リアルは根源的に超

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