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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (3)

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    ●ブルース・フィンク『後期ラカン入門』が届いたので、パラパラみていた。それで何となく思いついたのだけど、ラカン特有の、話をわざわざ分かりづらくするために出しているとしか思えないような変な記号(マテーム)は、キャラとして考えるとけっこう分かりやすくなるのではないか。 たとえば「四つのディスクール」の話に出てくる「S₁」、「S₂」、「a」、「S(正しくは「S」が射線「/」によって消されている)」を四人の人物として考えてみる。「S₁」を、家父長制的な、暴君のような父として、「S₂」を、律儀で真面目で合理主義者だけど退屈な人として、「a」を、ミステリアスな美女/美男として、「S」を、公には存在していないことにされている、非理性的で分裂した狂人として考えて、それぞれのディスクールは、これらのキャラがどのように関係する場面になっているのかで決まる、と考えると、かなり分かりやすくなる気がする。 (四つの

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    ●青山ブックセンター店で、保坂和志さん、樫村晴香さんとトークショー。といっても、ぼくは事実上壇上の観客と化していて、いくつかの質問を樫村さんにしただけなのだが。この場にいた人すべてが、(ぼくが96年にはじめて「ドゥルーズのどこが間違っているか?」を読んだ時と同じような)半端ではないショックを受けたのではないかと思う。樫村さんのテキストにも話にも共通してある、金属質の感触の強い力と圧倒的に凝縮された密度をもった言葉が、一人でも多くの人に響けばいいと思う。 ニーチェの生きた時代においては、記述は常に現実そのもの(世界そのもの)よりも貧しく、縮減されたものでしかなかったのだが(だからこそニーチェは因果関係や能動性を批判できたのだが)、ここ、2、30年の爆発的な科学とテクノロジー(と、あと多分資主義)の発展によってその関係が反転してしまって、より密度と領域が増大した記述によって世界が梱包され、

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    ●渡部直己による斉藤環批判、『徴候としての「批評」』(文學界2月)から感じた、ちょっとした違和感を巡って。 ●言語が作動する時、そこには常に原初的な対象関係(母親との関係)や象徴界への参入時における外傷が呼び出され、「愛(依存と支配への欲望)」や「幻想」(症候)が起動するというような精神分析の言い分は妥当なように思われる。(例えば樫村晴香によるこの論考(http://www.k-hosaka.com/kashimura/tinou.html)を参照されたい。)しかし同時に、「文学」がいつも「精神分析」を簡単には承認せず、そこに根拠を見いだすのに抵抗し、それに批判的なのもまた当然であろう。文学は、精神分析が見いだす重力=外傷(「愛(依存と支配への欲望)」や「幻想」)に対する抵抗、あるいはその解体(脱構築)としての、高度な言語的パフォーマンス(実践)としてあるとも言えるのだから。そこには、あく

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    suna_zu
    suna_zu 2016/02/22
    科学的-分節的な言語で対象関係(愛や幻想)という重力を対象化する精神分析的な知の言説(分節)/「愛」や「幻想」を積極的に起動まみれただなかで「解体(脱構築)」「別のもの」へつくりかえ切断する文学の言説芸術(作品)
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