タグ

2007年12月6日のブックマーク (10件)

  • VIPPERな俺

    2024年03月14日20:00 最近の女さん、彼氏が楽天カードを使ってるとダサいと感じるwwwwwwwww 1 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:24/03/14(木) 11:37:14 ID:cskf 確かにクレカで楽天カードが一番垢抜けないよな 2 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:24/03/14(木) 11:37:30 ID:8R5X 普通三井住友カードだよね 3 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:24/03/14(木) 11:37:39 ID:6hWk パンダかわいいやん 4 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:24/03/14(木) 11:37:42 ID:6lyy ワイはエポスゴールドカード 5 名前:名無しさん@おーぷん[] 投稿日:24/03/14(木) 11:37:51 ID:boLT 改悪されたとはいえポイントすごいからね、仕方ないね 7 名前

    VIPPERな俺
  • なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか? 上 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    『コミュニケーションは「まなざし」によって成立する ボクはネットコミュニケーションが大好きで、その可能性に期待しているが、信用はしていない。これはネットコミュニケーションを始めて、数年たち、いろいろ体験したボクの率直な感想である。 言語行為論に「コンスタティブ/パフォーマティブ」という考え方がある。たとえば母親が子供に「もう、好きにしなさい!」としかるとき、コンスタティブな意味、すなわち文章そのままの意味は「好きなようにしていい」であり、パフォーマティブな意味、その文章によって指示される意味は、「かってなことはするな」である。このようなパフォーマティブな意味=「真意」の読みとりは、それが言ったのは母親である、怒っている、などなどの、メタレベルでその場の状況(コンテクスト)が理解されて始めて、理解できるものである。 コミュニケーションは、質的には「コンスタティブな情報を伝えあうこと」と理解

    なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか? 上 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 神話なき神話の時代、再び - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    コンスタティブな言語意味に回収できない(溢るる)余剰とは、たとえば、絵を見て、音楽を聴いてなど、言語で表せないわき上がる感情というような感じでしょうか。結局、それはシニフィアンに回収されるわけですが。たとえば、ペットの「ミミ」へのわき上がる「いとおしさ」という言語だけであらわしきれない感情は、「ミミ」というシニフィアンに回収されます。そして「ミミ」は、神性が捏造される、というのは、偶像化される。 このような余剰は、すべての言語に含まれているのではないだろうか。「りんご」という言語に余剰はあるか?そもそも、言語はそれだけ取り出すのは不可能であり、コンテクストとは切り離せない。すなわちすべてコミュニケーションとして現れる。私は「りんご」と言うときには、そのコミュニケーションにおいて、コンスタティブ以上の言語意味が含まれている。(シニフィアンの浮遊性) たとえば、デリダは言語行為論の反論として、

    神話なき神話の時代、再び - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

    ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版
    sunagi
    sunagi 2007/12/06
  • 『最果てのイマ』試論(3) - 仮想算術の世界

    夏目漱石のいくつかの小説の文体は、視点を二重化すること、つまりオブジェクトレベルの視点とメタレベルの視点を巧みに同期させることで成立する。したがって、それは三人称の超越的な視点でもないし、当事者の視点だけを純粋化するものでもない。柄谷行人はその特殊な文章を「写生文」と呼んだが、僕の造語でいけば、写生文とは《構造的感受性》を備えた文章だと言い換えることができる。そこでは、構造は徐々に、あるいは予期せぬかたちで与えられるしかない。そして、構造が一度に成立しないところでは、意味はしばしば遅れてやってくる。漱石の小説の「唐突さ」にある種の合理性があるとしたら、それはテクストの一部分に蓄えられた未完の構造、すなわち《仮想的構造》が時宜を得ないうちにいきなり発動しはじめるからに他ならない。それは写生文の性質に基づいている。詳しい分析は省くが、おそらくは『それから』や『道草』といった作品にそういうヴァー

  • 『最果てのイマ』試論(2) - 仮想算術の世界

    心に実体的な記述を与えるということは、パフォーマティヴなものをコンスタティヴに読み替えることを意味する。しかし、実際にはそれは虚構なので、毎回異なる解釈がそのつどの時代に流布することになる。心はそういうコンスタティヴな記述によってかりそめに定着させられる。ここには、一種の倒錯がある。たとえば、心は物理的事象に還元できると強硬に主張する論者(最近ではジェグォン・キムのように)は、まさにその振る舞いによって「心」に宿るパフォーマティヴなものを露わにしてしまっている。心が物理の結果にすぎないのならば、そもそも最初から心について何も語らなければいいのに、彼らはかたくなに心というものの実在を還元論的に証明しようとする。その所作には、心の科学的証明とは別の、つまりはコミュニケーション論や言語行為論で語られるべき問題が根づいている。心とは、まずはコミュニケーションの成立条件のひとつなのだ。あるいは、ひと

  • 『最果てのイマ』試論(1) - 仮想算術の世界

    ずっとやりそびれていた『最果てのイマ』(Xuse)をようやくクリア。前々回のエントリーでは傑作と書きましたが、これはなんというか、「怪作」。 …というわけで、いくつか考察サイトを回ってみると、細かいつじつまをきちんと読み解いているサイトがけっこうあって驚く。正直いって、この作品の複雑に入り組んだ構造をぜんぶ脈絡をつけて理解できたわけではなかったので、確かにいろいろ参考にはなった。とはいえ質的な問題は、つじつまがあうか否かというよりも、作品全体が語りかけてくる「何か」なのであって、もちろん細かい詮索もあっていいが、それだけでは大樹を見失うおそれがある。確かに「謎解き」の欲望をかきたてる作品だし、あるいはよく言われるように田中ロミオ氏の文体も一級品だが、そこだけ見てわかった気になるのはつまらない。 もっともこの作品の真価は、ある意味では、「大樹」以上にむしろいわば「枝葉」の部分、つまりふ

  • 心と快楽 - 仮想算術の世界

    こんにちは。最近お香と知恵の輪に惹かれている福嶋です。 さて、いまちょっと格的に更新する余裕がないので、今回は「『最果てのイマ』(フルボイス版が出るのも知らずに、うっかり買ってしまった)は傑作か名作か」という問題がらみで友人に即興で宛てたメールを、そのまま貼ってしまいます。なにやらきもい文章ですが、プライベートで書くものなんてこんなもんでしょう。 まぁでも、いまさら僕が言うことでもないですが、田中ロミオさんの文章はマジで素晴らしい!こんなひとと同時代を共有していることを、純粋に嬉しく思います。 * まぁほら、俺って所詮は文学少年だから。ああいう快楽の空洞化した世界って わりとリアルに思えてしまうんだね。 なんというか、文字通りのhollow ataraxia(うつろな楽園)ってかんじ? これぞエロゲーの世界観の真髄だと思っております。麻枝も、奈須も、 めておも、煎じ詰めれ

  • 伊東忠太 妖怪研究

    一 ばけものの起源 妖怪(えうくわい)の研究(けんきう)と云(い)つても、別(べつ)に專門(せんもん)に調(しら)べた譯(わけ)でもなく、又(また)さういふ專門(せんもん)があるや否(いな)やをも知(し)らぬ。兎(と)に角(かく)私(わたし)はばけものといふものは非常(ひぜう)に面白(おもしろ)いものだと思(おも)つて居(ゐ)るので、之(これ)に關(くわん)するほんの漠然(ばくぜん)たる感想(かんさう)を、聊(いさゝ)か茲(こゝ)に述(の)ぶるに過(す)ぎない。 私(わたし)のばけものに關(くわん)する考(かんが)へは、世間(せけん)の所謂(いはゆる)化物(ばけもの)とは餘程(よほど)範圍(はんゐ)を異(こと)にしてゐる。先(ま)づばけものとはどういふものであるかといふに、元來(ぐわんらい)宗教的信念(しうけうてきしんねん)又(また)は迷信(めいしん)から作(つく)り出(だ)されたものであ

    sunagi
    sunagi 2007/12/06
  • IDEA * IDEA

    ドットインストール代表のライフハックブログ

    IDEA * IDEA