水俣病(みなまたびょう)は、熊本県水俣湾周辺の化学工場などから海や河川に排出されたメチル水銀化合物(有機水銀)により汚染された海産物を住民が長期にわたり日常的に食べたことで水銀中毒が集団発生した公害病である[1][2]。 第二次世界大戦後の日本における高度経済成長期の負の側面である四大公害病の一つである。「公害の原点」ともいわれ[3][4]、工業災害における犠牲者の多さでも知られる[注 1]。また、水俣病と全く同じ原因そして同じ症状の患者が新潟県阿賀野川下流域で集団発生した(第二水俣病)[1]。有機水銀病とも言われる[5]。 1956年(昭和31年)5月1日、熊本県水俣市の新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場附属病院長の細川一が水俣保健所に患者の発生を報告し、公式に確認された[6][7]。1958年(昭和33年)頃から「水俣病」の名称が使われ始め[8][9]、1968年(昭和43年)9月2