ブックマーク / saga135.hatenablog.jp (169)

  • 汐の情景  十九話 - 人生は花鳥風月

    数日後の或る朝、英和は仕事現場へ向かう道中に車を運転していた康明の様子を訝らずにはいられなかった。 口笛を吹きながら運転する彼のテンションは必要以上に高く感じられる。車中に流れる音楽のボリュームも何時もより大きい。違和感を覚えた英和は素直に問う。 「何や、えらい上機嫌やんけ、何かええ事でもあったんかいや?」 「ま~な」 康明はそれだけを答え軽快な捌きで車を走らせる。他人を干渉するのが嫌いな英和であってもこの耳を劈くような烈しい音楽を朝から聴かされるのは少々堪える。以前なら直ぐにでも文をつけていたであろう彼にも、親方が倒れてからは何処となく慎重な様子が窺える。 結局は何も言わなかったし言えなかった。でもそれは康明に対する哀れみに依って育まれた寛容さとは思いたくない、謂わば幼子が無理をしてまで己が非を認めようとはしない健気にも純粋で頑なな一時的な心情に類似していたのかもしれない。 現場に着いた

    汐の情景  十九話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/11/18
  • 汐の情景  十三話 - 人生は花鳥風月

    海中に見る美しい光景。小魚の群れが一団となって素早く華麗に舞い上がる姿は見るものを圧倒する。 まるで鍛え上げられた騎馬隊のような、或いは入念な稽古を熟した踊り子のような。この魚群というものはそんな練習でもした上でここまでの舞台を演じているのだろうか、それとも意図せずに自然に身に付いた業なのだろうか。 鮮やかなに彩られた一団の姿は精妙巧緻にして優雅、勇ましくも繊細な優美な曲線を描きながら海の中を縦横無尽に踊り続ける。 天衣無縫とはこの事か。生まれたての天使がその澄み切った心根で表す有形無形の動作は正に天為とも言うべく神々しいまでの光を放ち、些かの邪念すら寄せ付けないであろう華奢ながらもしなやかで絹のような柔軟なオーラには崇高な力を感じる。 社会人になって自分がどう変わったのかは分からないし興味もない英和だった。何故ならいくら年を取ろうとも何があろうとも変わらないといった純粋無垢な青春の志を超

    汐の情景  十三話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/11/07
  • 汐の情景  十一話 - 人生は花鳥風月

    大会が終わって数日後、部活動が始まる前に顧問の先生が例の約束を果たしてくれる。てっきり大会場から帰る時に奢って貰えると高を括っていた英和はこの時間差攻撃を喰らわして来た先生のお手々に嫉妬してはいたものの、律儀に約束を果たそうとするその心意気には少なからず敬服していた。先生は言う。 「おう林田、奢ったるわ、堂行こうや!」 まさかとは思ったが学校の堂で奢ってくれるというのか。今学校に居る訳だからその可能性は十分予期出来たまでも、それを実行する先生の思惑とは一体何だったのだろうか。単に経済的な意味でそうせざるを得なかったのか、それとも初めからそのつもりで己がセンスをひけらかしたかったのか。 堂に入るなり先生はこう語り掛けて来る。 「うどんでええか?」 英和は考えるまでもなく即答する。 「はい、有り難う御座います」 堂のうどんは結構美味しいと評判だった。そのうえ一杯たったの150円という破

    汐の情景  十一話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/11/04
  • 汐の情景  十話 - 人生は花鳥風月

    或る日英和は何時も通っていた銭湯でばったり義久と出会う。彼の底を見せぬ相変わらずの無表情な顔つきには未だに釈然としないものがあったが、どうせパチンコで負けたであろうと予測する英和は貸した金が返って来る事に期待はしなかった。 風呂場に入った時点で何か人の視線を感じる。他人に干渉する事を嫌う英和は毅然とした態度を崩さなかったが、知り合いの常連客の一人が声を掛けて来た。 「おい、お前そのケツどないしたんや? 真っ白やんけ!」 笑いながら訊いて来るその者に一瞬動じた英和だったが、よくよく自分の身体を見てみると確かに腰から下、股にかけての部分だけが真っ白になっている事に気付く。それは部活動で穿いていた水泳パンツに依ってその部分だけが日焼せずにいた為、他の部分と比べて際立って白く見えるといった滑稽なものだった。 無論他の部分が日焼けしていただけで地肌が特別白いという訳ではなかったが、改めて鏡に映る身体

    汐の情景  十話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/11/01
  • 汐の情景  九話 - 人生は花鳥風月

    後ろを振り返る事を嫌う者はいても、一度だけでも過去に戻りたいと思う者は結構な数で存在するのではなかろうか。 前向きな精神に虚勢を感じるとは言わないまでも、その人生に於いて只の一度も昔に戻りたくはないといった思想には多少なりとも無理があるように思える。 無論そこに災いの種が見え隠れするようなら立ち戻る必要性すら無い訳だが、たとえ一筋の光明でも見えれば自ずとそこへ向かってしまうのが人間心理だろう。 互いに息を合わすかのようにして後ろを振り返り、歩みを進め、向かい合う英和と直子はその目を見つめながらも言葉を失っていた。こんなシチュエーションに言葉を求める事がたとえナンセンスであろうとも何か一言でも口にしなくては気が済まないのも人間の性みたいなもので、それこそナンセンスながらも英和は思い付いた事をそのまま言葉に表すのだった。 「何で戻って来たん?」 直子はまるで先に言われたような歯痒い表情をしなが

    汐の情景  九話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/10/30
  • 総裁選の行方 ~現代人の精神年齢 - 人生は花鳥風月

    秋雨に  霞む時代の  先行きよ(笑) いやいや、それにしてもよく降る雨ですね。自分は雨が好きな方なのでいっそもっと烈しく降って日列島を沈めてしまえと思わないでもありませんが、そんな事を言ってはいけません。 女心(男心?)と秋の空とは言いますが、気候同様に所詮は人の心も無常なのでしょうか。であるなら尚更その中に一貫性を見出したいとも思ってしまう訳ですが、変化なくして進化なしとも言いますし、自分のような頑なな人間は多角的、多面的考察力の必要性に葛藤し続ける人生ではあります(笑) 総裁選の行方 www.ohbsn.com 結論から言えば何しとんねんって感じですかね。政界の動揺は今に始まった事でもありませんが、この緊急時に総裁選や選挙などしている場合かとも思ってしまいます。 それも相変わらず派閥間の下らない駆け引きばかりに終始している様子を見るとまるで平安時代、藤原氏が隆盛を誇っていた頃の馴れ

    総裁選の行方 ~現代人の精神年齢 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/09/04
  • 今週のお題  ~もっとサボりましょう^^ - 人生は花鳥風月

    今週のお題「サボる」 鳴き止みて  想うは蝉の  憂いかな(笑) いよいよ8月も終わりまするなぁ~。今にして思えば蝉が煩く鳴いていた頃が懐かしいぐらいですけど、極めて寿命の短い蝉は一体何を思って毎年毎年勇ましく鳴き続けているのでしょうね。決して鳴く事をサボらない蝉の姿には尊敬の念を抱くばかりであります。 無論今年も夏らしい事など何一つしなかった自分ではありますが、夏の終わりというものには毎年のように淋しさ、切なさを感じずにはいられません。 という事で(どういう事やねん?)今週のお題に挑みたいと思います^^ サボった経験談 これはいくらでもあります。元々ナマクラ(怠け者)な自分は人生サボってなんぼという感覚がありますね。特に何かをサボった時の爽快感はなのものにも代えがたいですね。ただその後に襲って来る悔恨の念には相当なものもありますけど。全ては自業自得で、たとえ精神面だけでも自ずと代償払わさ

    今週のお題  ~もっとサボりましょう^^ - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/29
  • イージーパンツの日  ~お知らせ(夢) - 人生は花鳥風月

    降り続く  雨の下にも  仏の座(笑) いやいや、よく降る雨ですけど皆様方におかれましては益々ご健勝のこことお慶び申し上げます。 さて、もはや盆も過ぎた今となっては正月を目指して歩みを進めるしかないとも思えるのですが、そう急いてもいけません。日々を大切に生きて行く事こそが肝要である事は言うまでもありません。 そこで着目すべきはやはり記念、行事ですね。一日足りとて絶えることなく紐帯されるこの記念日は正に日的美学であり、一日一日を感謝して生きて行く心の糧を持たせてくれます。それは無論前向きな精神を育み、更には花鳥風月に至ります。 という事で(どういう事やねん!?)早速進めて行きましょう^^ イージーパンツの日 山口県山口市に社を置き、高品質・低価格のカジュアルブランド「ユニクロ」を展開する株式会社ユニクロが制定。 日付は「パ(8)ンツ(2)イー(1)ジー」と読む語呂合わせから。スタイリッシ

    イージーパンツの日  ~お知らせ(夢) - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/21
  • 哂う疵跡  十二話 - 人生は花鳥風月

    正式に社長の座に就いた一弘ではあったがその表情に明るさは感じられなかった。彼の心に翳を落とすものの正体がグループの逼迫した経営状況である事は言うまでもないのだが、それと同等の重さを持っていたものは他ならぬ幸正の存在であろう。 幸正が一弘に与えた助言は二つだった。一つは今直ぐ会社を畳んで財産を全て売却し一から再出発する事。二つは因縁のある丸新興産と手を組み共存共栄を図る事。 何れも承服しかねる実に馬鹿馬鹿しい話なのだが、一番の気掛かりは幸正が何故そこまでして西グループの経営に干渉するのかという不可解な点であった。 グループを潰してただ腹いせがしたいだけなのか、それともまたよからぬ事でも企んでいるのか。幸正の腹はなかなか読めない。だがこれ以上私利私欲の為だけに常に行く手に立ちはだかる障壁を取り除かない訳にもいかないと判断した一弘は思い切って兄の一将に連絡と取るのだった。 「あ、兄貴か、久しぶり

    哂う疵跡  十二話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/19
  • 哂う疵跡  十一話 - 人生は花鳥風月

    会長は悔やんでいた。一弘に止められたとはいえ何故幸正などを易々と入れてしまったのか。いや、奴が現れてしまったというその因果自体を。 その後幸正は強引に追い出されはしたものの、一弘の胸の内には彼が口にした事がはっきりと刻み込まれてある。兄と違って人の好い一弘は幸正の事が忘れないだろう。それは次期社長となった今の彼には余りにも大きな問題で、グループの行く末も危ぶまれる事は言うまでもない。 「やはり是が非でも一将を引き留めておくべきだったかぁ」 暗澹たる思いで呟く会長の一彦にはもはや次なる策が無かったのだった。悔いても及ばぬ事ながらも悔いずにはいられない。これも人間の性なのかもしれない。 「何故そんな者を容易く中へ入れてしまうのですか? 私がいたなら即刻追い出していましたわ、貴方も一弘もほんとにお人好しなんだから、似た者親子とはこの事よ」 相変わらず鼻っ柱だけは強い一彦の沙也加はこんな感じで次

    哂う疵跡  十一話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/18
  • 哂う疵跡  十話 - 人生は花鳥風月

    神なびの みむろの山を秋ゆけば 錦たちきる心地こそすれ。一将の進んだ道は決して神聖なものとは言えないが、烏滸がましくもこの歌のような心持にさせてくれる秋という気節自体が神聖で尊ばしいものである。 その天為に応えるべく日々精進して行く人々の有り様も見事なもので、万物を美しく彩る秋そのものが美の象徴であるとも思える。 一将はその後も直向きに任侠道に励み、組への忠誠心を高めその身を律し、何時の間にか一端の極道へと成長していたのだった。 彼の素晴らしい所は己が出世だけではなく、新参者であるにも関わらず誰からも恨み妬みを買っていない事に尽きるだろう。それどころか組内でも既に求心力のある一将はもはや一家の長となるのにも十分な器量、貫目を持ち合わせていたのだった。 それを羨むのは寧ろ組長である宇佐美であったかもしれない。彼は弟分である一将の出世を喜ぶと共に内心では危惧を抱いていた事も否定は出来ない。だが

    哂う疵跡  十話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/16
  • 盆の締め括り  総括 ~新たなる旅立ち - 人生は花鳥風月

    送り盆  浮世に廻る  儚さよ(笑) いやいや、この前始まったばかりの盆ももはや終わりとは、当に早いです。自分としては相変わらず世の無常を感じずにはいられないという所なのですが。 とはいえ何時までも嘆いている訳にも行かず、ブログを執筆する事に依って心にめりはりをつけたいと思う次第です^^ 総括 まずは総括ですね。これを忘れてはいけません。物事には順番というものがあってこれを飛ばして次の段階に進む事は出来ない、いや、してはいけないと思う所なのですが、どうも現代社会はこの総括を忘れているような気がしますね~ 😔 ま、愚痴はよしましょう。要は自分がそう心掛ければ良いだけの話ですね。 その壱 終戦記念日 8月15日といえば終戦記念日。これだけは忘れようとしても思い出せません(バカボンパパ風)、いや忘れてはいけない事です。 戦没者、その尊き英霊の魂達を送り迎えする日がちょうど盆である事は正に色即

    盆の締め括り  総括 ~新たなる旅立ち - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/16
  • 哂う疵跡  九話 - 人生は花鳥風月

    また一つ橋を渡り終えた二人は互いの身体に内在する力を分け与えるよう、そして倍増させて行くような逞しい男女に成長して行く。 一将の凛々しくも愛らしく、豪胆にも堅実な為人は優子を安心させ、優子の聡明でお淑やかながらも威風堂々と事にあたる荘厳な佇まいは一将を心強くさせる。 男女の営みが織りなす世界には情愛や傾慕は言うに及ばず心身ともに人を強くさせるといった恩恵までもが含まれているような気もする。それを体現する事に依って更なる力が生まれる事こそが万物の成長であって美しい流れでもある。 一夜を明かした二人は朝露に濡れた葉から零れ落ちる一滴の汗を窓外に眺めながら肩を寄せ合い語り始める。 「何時になく熱かったじゃないの」 「お前もな」 優子は流し目で一将の背中にある大きな傷痕を手でなぞりながら、少し切ない表情を浮かべて言い表す。 「この傷、私が原因で付けてしまった傷なのよねぇ、もう痛みは無いの?」 「も

    哂う疵跡  九話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/15
  • 哂う疵跡  三話 - 人生は花鳥風月

    幸正が運転する車を飛ばすこと約30分。街はずれの少し人通りの少ない路地裏に山誠会系神田組の事務所はあった。 先々代の頃から山誠会に懇意にして貰っていていた西グループはこの神田組とも旧知の仲であったのだが、年々強まって行く暴対法の影響に依ってその関係も希薄になり最近では完全な疎遠状態にあった。 だがそれは今の時世には寧ろ好都合で、以前から裏社会との関係を断ち切りたいと思っていた会長、つまり一将の父もそういう経営方針をとっていた。それが今になって自分達の方から頼る事になってしまったのは実に不甲斐ない話でもある。一将は己が非力さを恥じながらも毅然とした態度で向かって行く。 門番に案内され中へ入って行く二人。一将がこの事務所を訪れるのは何年振りだろうか。幼い頃、山誠会宅を訪れた事は覚えているのたが、ここへ来た事は全く覚えていなかったのだった。 部屋で待っていると組長の宇佐美が悠然とした態度で入っ

    哂う疵跡  三話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/09
  • 哂う疵跡  二話 - 人生は花鳥風月

    一将には弟が一人居た。まだ大学生である一弘もまた兄同様に西グループの業務に従事しており、兄弟揃ってがっちり二人三脚、西グループを背負って立つ者としてその将来を嘱望されていたのだった。 一弘と部下の幸正は特に仲が良かった。皆同世代とはいえ年齢的には一番年上であった一将はグループの長としての風格もあり、彼に対しものを言う者は親以外には大していない。そこで一つ年下の幸正は更に一つ下の一弘を弟分のように可愛がり、一弘も彼の事を兄のように慕っていたのだった。 この三者に共通する点があるとすれば人を蹴落とす事にだけは長けた稚拙にも思える負けん気の強さぐらいだろうか。特に幸正などは西グループの御曹司二人との親密な間柄を盾にして会社内でも少々傲慢な立ち振る舞いをしていた。 無論その事では一将は言うに及ばず、彼の父である会長の西一彦からも何度となく厳しい叱責を受けていた。一度は馘にもなりかけたのだがそれを救

    哂う疵跡  二話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/08
  • 哂う疵跡  一話 - 人生は花鳥風月

    2005年(平成17年)の夏は暑かった。例年のように厳しい暑さを訴える夏という気節は有難い反面陶しいようにも思えないでもない。 勇ましくも煩い蝉の鳴き声、燦然と照り輝く強烈な陽射し、青々しい樹々に草花、汗を拭いながら道行く人々に意気揚々と走り回る可憐な童達、そして涼やかにも一筋の美しい線を現す川の流れ。 自然の恩恵を受け続ける生きとし生けるものは、その自然に対し恩返しをする事が出来るのだろうか。その想いこそが己惚れに値するのだろうか。何れにしても夏という気節には殊の外印象に深いものがある。 この日も汗水垂らしながら外回りの営業職に勤しんでいた一将は一つの大きな商談を取り纏めたあと、或る喫茶店に立ち寄りお茶を飲みながら物思いに耽っていた。 「これで取り合えずは会社も持つだろう、でもそれも何時まで続くか分かったものではない、ならば今のうちに次の手立てを考えるのも一興か.......」 窓外の

    哂う疵跡  一話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/07
  • 甦るパノラマ  最終話 - 人生は花鳥風月

    物言えば唇寒し秋の風。せっかく面会に訪れたというのにいざ英昭を前にするとなかなか言葉が出て来ないさゆり。彼の姿に大した変化は見受けられなかったものの、何かが邪魔をしているような気がする。それは英昭とて同じで言いたい事、訊きたい事は山ほどあるのに何故か口が開かない。内的なものか外的なものかは分からないが見つめ合う二人の間には目に見えぬ力が働いていたように思える。 見つめ合う事1分以上、一瞬たりとも視線を反らさなかった二人は全く同時に笑みを浮かべる。人間というものは実に不思議な生き物である。その微笑をきっかけにして徐に口を開き出す二人には心に合致するものでもあったのだろうか。さっきまでとは打って変わって明るい表情を浮かべるその姿にはまるで童のような可憐にも稚拙な雰囲気が漂っていた。 それでも多くを語る事を憚られたさゆりは控え目ながらも毅然とした態度で英昭の母の容態を真っ先に伝える。 「お母さん

    甦るパノラマ  最終話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/05
  • 甦るパノラマ  三十二話 - 人生は花鳥風月

    英昭の母の容態は連日のように如才無い献身的な看病をしてくれていたさゆりと、その胸襟を開いた会話に依って思いの外早く回復して行くように見える。 医師から軽い脳貧血と言い渡された彼女はしっかりとした養生をするよう指示を受け、薬を貰って退院する。 何とかタクシーに乗り込み一人で家に帰る事が出来たは良いが、この後どうするのかが問題である。人間というものはやはり一人で生きて行く事は出来ないのだろうか。事が起きて初めて胸に想う非力さと憂愁感。それは切なさや儚さなどといったどちらかと言えば綺麗なものなどではなく、凄まじい恐怖に充ち足りた完全な虚無であった。 欲が全く無いにも関わらず台所に立ち何かをしようとする彼女。それは単なる習慣なのか姿を消してしまった息子を想う優しさなのか。しかし多少なりともべない事には自分の身体にも障ると感じた彼女は徐に包丁を手にしてキャベツを千切りにし胡瓜と合わせたサラダを

    甦るパノラマ  三十二話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/04
  • 甦るパノラマ  三十一話 - 人生は花鳥風月

    病室に入ったさゆりが目にした光景は御労しくも嘆かわしい、同情を禁じ得ない実に不憫な英昭の母の姿だった。 既に眠っているであろう彼女の手をそっと握り瞑想するさゆり。すると彼女は徐に目を開けてか細い声で語り掛けて来る。 「さゆりちゃん、来てくれたのね、ありがとう」 潤んだ瞳を隠す事が出来ない彼女は素直な想いを告げるべく必死に言葉を続けようとするのだが、その容態を案じるさゆりは優しく毛布を掛けてやり安静にしておくよう献言する。だがそれでも尚発言を試みる彼女をさゆりは静止する事が出来ない。 「どうしても訊いて欲しい事があるのよ」 「はい」 「英昭は警察に捕まったのよ、暇田川署よ、悪い事をしてしまったのよ」 この一言に依ってさゆりは戦慄するのだが、要らぬ心配を掛けたくないという健気な想いはそれを封じて自らを律する。その瞬間英昭の母は少し安心したような表情を浮かべたのだった。 「まだ何をしたのかまでは

    甦るパノラマ  三十一話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/03
  • 甦るパノラマ  三十話 - 人生は花鳥風月

    罪を認めた英昭は取り合えず警察の留置所で一夜を明かす事になった。主犯である義正も既に取り調べを受け留置されているとの事だった。 初めて味わう罪人としての処遇。それは今までの彼には想像もつかない話であった事は言うに及ばず、いくら夏とはいえこの牢屋から感じる事といえば常闇、冥闇(めいあん)、冷徹、冷血、冷酷、残酷と、涼しいどころか底なしの冷たさと闇を訴えるようなものばかりだ。 一切の人情が失われたこの空間の中で幾日も暮らしているとその者も何れは廃人になってしまうだろう。罪人に人権などというものは無いのかもしれないが、もし冤罪ならば末恐ろしい話ではある。 しかし英昭が真に怖れていた事は言うまでもない母の容態であった。 診察室に誘われた母は先生の触診を受けるまでもなくその顔色だけを見て入院の必要性を告げられた。才子多病というべきか、さゆり同様生まれつき聡明な女性であった母はこれまでも幾多の病苦に苛

    甦るパノラマ  三十話 - 人生は花鳥風月
    suoaei
    suoaei 2021/08/02