多事多難であった今年もあと2日となった。いずれの年も人の世は艱難(かんなん)の連続であるが、今年は就中(なかんずく)国難というべき年であった。 ≪国難の中で国家意識した今年≫ 東日本大震災とそれに伴う原発事故は、日本人が久しく忘れていた国難という言葉を思い出させたが、政治や経済の状況もまさに国難といっていいほどの惨状を呈している。災害からの復興は徐々になされていくとしても、政治や経済、そして国防や教育などに関係した国難は、日本人のこれらの難題に対して取る態度や行動によっては、来年以降、一層過酷なものとなるであろう。 今年の苦境の、唯一日本人にとって逆説的にいい意味があったのは、国難という事態を痛切に感じさせて、国家の存在を重く受け止めるようになったことである。国家意識がなく、市民運動のレベルで国の運営ができると高を括(くく)っている政治家の跋扈(ばっこ)は、これで抑えられるのではないか。
「日本には過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」とは実に言い得て妙である。 なぜ死んでも働かなくてはならないのか。 なぜ仕事がなくて死ななければならないのか。 全ては、「無職は悪」とする意識、風潮、空気、コモンセンスに起因する。 何かの縁でこのページをご覧になった人は、ぜひ「無職は悪」という考えを捨てて欲しい。 より多くの人が「無職は悪」という考えを捨てることが、「無職の何が悪い」と堂々と言える世の中にすることが、人の命を救うことにつながる。 皆、無職になるのが怖い。それは単に収入が絶たれることのみならず、「失業者」「無職」のレッテルが、まるで犯罪レベルで白眼視されるからだ。それまでどんなにきちんと働き品行方正であっても、無職になった途端、落伍者扱いだ。成人男性の場合は、平日日中に街を歩くだけでも犯罪者扱いされかねない。 だから、たとえ残業代が出なくても、雇用主に嫌われないよう
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く