2013年12月15日のブックマーク (1件)

  • 「道義的責任」の引き受けが「法的責任」の否認の隠れ蓑でしかないケース - Apeman’s diary

    大沼保昭氏は『「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』(中公新書)においてアジア女性基金への批判に応え、次のように反論していた。 (……)「日政府が道義的に責任を認めるだけでは十分でない、法的責任を認めることが国家として責任を認めることになる」という主張は、暗黙のうちに「国家の責任のあり方として、法的責任の方が道義的責任より価値がある」という価値序列を想定している。だが、法的責任とはそんなに価値あるものなのだろうか。いったい誰がそういう序列を決めたのだろうか。 (157-158ページ、ボールド体は原文では傍点。) しかし「責任を痛感します」と口にしさえすればそれ以上具体的な行動を義務づけられない「道義的責任」の引き受けが、法的責任の否認に利用されることがしばしばあることを、橋下徹・大阪市長が例証してくれている。 MSN産経ニュース 2013.12.1 「道義的責任と

    「道義的責任」の引き受けが「法的責任」の否認の隠れ蓑でしかないケース - Apeman’s diary
    syachiku1
    syachiku1 2013/12/15
    道義的責任とは自己の良心が審判するものであり、法的責任とは根本的に異なる。道義的責任を認めたからと言って法的責任を逃れる事を意味する訳では無い。逆も然りだが