西郷隆盛のホームページ。西郷の謎や実像に迫るテーマ随筆、西郷隆盛の生涯、西郷と大久保、鹿児島史跡案内等を詳しく紹介。海音寺潮五郎の話題も。
それでは、同じような、いやもっと「悪質」な大量の裏切り行為をした帖佐士族・黒江豊彦たちは、なぜ「黙認」されたのだろうか。 この理由の手がかりは、やはり昭和8年刊行の『帖佐村郷土誌』にしかなかった。 この『帖佐村郷土誌』に関しては、私はすでに『西南之役異聞』で、あの空を飛んだ「山駕籠」のエピソードで触れている。しかしながら、私が手元に持っていた資料のコピーでは、この郷土史の全体がつかめなかったのである。そこで、今回、改めて、西南戦争に関する部分をコピーして送ってもらっていた。そしてそれを再確認すると、驚いたことに、この昭和8年刊の郷土史には、西南戦争に関する項目は全くなかったのである。 目次を見ても、明治、大正、昭和という独立した最後の章に、西南戦争という鹿児島の歴史にとって欠くことのできない事象が消えている。そればかりか、他の郷土史でも必ず設けている、日清、日露の戦争に関する項目も目次には
No4です。 このような背景の下、長州藩(毛利)は当然アンチ徳川の家風になります。 徳川より、朝廷と深く関係を結びます。(これ以前からそうでしたが) 水戸の思想(将軍より天皇がえらい)を大きく受け入れ、、尊皇攘夷・倒幕に なるのは、自然の流れでしょう。 幕末期の殿様である毛利敬親は、家臣の進言に対して「そうせい、そうせい」 となんでも好き勝手にやらせていました。 家臣内にも穏健派はいましたが、過激派(吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作、 久坂玄瑞など)が実権をとり、倒幕の道まっしぐらです。 土佐は山内含む上司は、当然徳川あっての自分たちと思っています。 長宗我部の残党の子孫たち(坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山など)は、 徳川や山内に対して、なんの恩恵もさずかっていないので、自分たちを 人間扱いしてくれる思想に傾向します。 外人と結ぶ、腰抜け幕府はあてにならん、日本を自分たちで守ろう、命を かけよ
今日の午後から琉球大学「江戸立」探検隊フォーラムがありました。 さて「江戸立」ってなんでしょう? ワンも知りませんでした。意味はココで確認して下さい。 平日開催だけど是非これは参加したいと思い、この“フォーラム”と“通常の仕事”を天秤にかけた。 通常の仕事は明日以降2倍頑張れば取り返すが、このフォーラムは2度と無い! 参加!! ※この事業目的は琉球大学の学生が「江戸立」の道を追う!的なもの 行って良かった。とっても勉強になりました。 ワンはシマ唄に興味をもって以来、その背景にある琉球・薩摩との関わり合い・影響は避けては通れない事で、自分なりに調べたり聞いたりするが“?”が増える。もちろん、学者でも正解は見付けられないけど・・・ 今日も古文書(中国含む)や考古学の新たな調査結果から、見解が変ってきている。 昔にはロマンがあるね〜 フォーラムの中で少し自分なりに思った事があります。 今日の本題
奄美出身者や在住者らでつくるグループ(仙田隆宜代表)が18日、鹿児島県と沖縄県の両知事が21日に奄美市で予定している「交流拡大宣言」の中止を求める要請書を鹿児島県知事あてに提出した。メンバーは「奄美が搾取され続けた歴史の検証と総括が欠けている」と批判している。 両県は島津藩の琉球侵攻から400年を契機に交流を深める連携事業を実施。1日に鹿児島市でシンポジウムを開催したほか、4日に両県議会が友好関係を深める共同声明を掲げた。これらの活動に対し、差別と収奪に苦しめられた奄美の歴史を学んできた仙田さんらが「歴史認識が浅い」と反発。今回の中止要求に踏み切った。要請書では奄美を宣言の地に選ぶことに深い違和感を表明している。 要請書提出後に会見した仙田さんらは「交流拡大そのものを批判しているわけではない。今でも差別を受ける島の人もいる。400年の節目を安易に利用せず、歴史教育や検証をしっかりした上
1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻から400年の節目として、伊藤知事と沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は21日、奄美市で開くセレモニーで、交流拡大宣言をする。これに対し、市民団体「奄美を語る会」(250人)などでつくる、中止を要求する会(仙田隆宜代表)は18日、「400年間の検証と総括がされておらず、現時点での宣言には違和感がある」とし、宣言の中止を求める要請書を伊藤知事あてに提出した。 要請書では、「奄美の島々では現在に至るまで、差別と収奪の対象にされてきた」としたうえで、「薩摩の奄美・琉球侵略を『不幸な歴史』と清算して、過去を隠蔽(いんぺい)し、謝罪すべき事を『交流』と称し、奄美を愚弄(ぐろう)することは許せない」としている。 記者会見で仙田代表(62)は「交流を深めることに反対するわけではない。奄美の住民の意見も聴かず、共通の歴史認識もしっかりしないまま、セレモニー的に
島津氏を中心に、九州各地の武将たちの墓は、 サムライたちの墓-九州編 サムライのおんなたちの墓は おんなたちの墓 にリストアップしてあります。ぜひご覧下さい。 島津氏薩摩入国から、戦国時代までの歴史 島津略系図 島津氏のルーツ 島津氏初代から五代までの墓(野田町) 島津氏の薩摩支配の初期の本拠地です。 近衛信尹屋敷跡(坊津町)―近衛家と薩摩 伊作島津氏による三州統一までの歴史 島津 九州制覇目前までの合戦マップ 島津氏中興の主―島津忠良、薩摩統一 島津氏台頭前夜の南九州豪族分布図 蒲生氏、渋谷氏との戦い―岩剣城合戦 大隅の雄肝付氏との最終戦―廻城、高山城攻防戦 木崎原合戦―九州の桶狭間、伊東氏撃破1571年 高城で、大友軍を撃破、耳川まで追撃 1578年 耳川合戦―大友宗麟を撃破 1578年 沖縄手の戦い―肥前の虎竜造寺隆信を討取1584年 戸次
記事番号:1018 (1999年04月10日 18時23分24秒) 投稿者:金天海 (属性:日本国籍朝鮮) メールアドレス:screamer@mypad.com [話題別一覧|時系列一覧|最新50投稿|最新20+関連] この記事は[Re3: 楽しく生きましょう]へのコメントです。 内容 私は沖縄の歴史を知らないので恥ずかしいのですが、「琉球王朝→身分制度の残る日本に >併合→戦場/米国占領下→日本復帰」という要約を見ただけで、沖縄人の心に存在する >「昇華されるのを待ち続けている哀しみ」のようなものを思います。それだけに、沖縄尚学 >高校の優勝は、私には想像できないほどの喜びをもたらしたんでしょうね。また、水戸商業 >高校も立派ですね。そんな素晴らしい情景を見逃したのが残念です。 重大な問題がまだいくつもあります。琉球差別はまだ存在しています。(琉球に集中する 米軍基地を見よ) 戦前は、求
スペイン、ポルトガルはインカ帝国等南米の侵略、略奪を謝罪したのか?西欧宗主国は植民地に謝ったのか?クリントン大統領がハワイへの武力制圧を謝ったのに習い、日本政府も“琉球征伐”を謝るべきという主張もある。 米軍、否それを容認した日本政府は伊江島や伊佐浜の住民に対し銃剣とブルドーザーで田畑家屋を焼き払い基地を建設した罪を謝って欲しい。冗談でもいいから過酷な黒砂糖搾取で維新断行の財源を蓄積した鹿児島県(薩摩藩)は奄美人に一度位は謝ってもいいのでは。と、ここまで言うなら宮古の人々は人頭税の圧制を強いた琉球王府(沖縄県)に謝罪要求するか! まあ、以上は冗談でもアメリカは第2次世界大戦の三国同盟一翼のドイツ都市ドレスデンへの無差別爆撃に哀悼、謝意を表している。にも関らずそれ以上の市民殺戮を招いた広島・長崎の原爆投下に対して未だに献花一輪もしていない。同じアングロサクソンには謝るが黄色人種には謝らないの
5月9日、沖縄県立博物館で「薩摩の琉球侵攻400年を考える」シンポジウムが開催されたので、参加してきました。参加人数は数百人を超え、臨時に第三会場まで用意するという盛況ぶり。沖縄での関心の高さがうかがえます。 報告者は琉球史研究を牽引する先生方、また本土や奄美からの研究者も参加したそうそうたるメンバーでした。さまざまな切り口から薩摩侵攻についての報告が行なわれました。とくに面白かったのは女性史や民間伝承、精神史の面から薩摩侵攻事件にせまった報告など。これまで考えたことのない新しい視点からの話は、とても興味深いものでした。 さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く