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  • 江戸時代の地者「地獄」というお仕事【後編】 ~庶民の男には夢心地! 口コミで大流行~ | 歴史人

    『我衣』(加藤曳尾庵・かとうえびあん 著)の文政七年(1824)の項に、次のような内容の記述がある。 転び芸者や地獄が横行して目に余るので、五月の初め、町奉行所は各所を摘発し、二百七十六人の女を召し取った。うち、百十二人が牢に入れられた。 中橋や京橋がとくに多かった。 転び芸者とは、客の男と寝て金を得ていた芸者である。 当時、芸者と地獄がセックスワーカーとして人気があったことにほかなるまい。 『甲子夜話続編』(松浦静山 著)に、次のような事件が記されている。 関口の目白不動(新長谷寺)の門前に、数軒の出合茶屋があった。 出合茶屋の亭主たちは相談し、 「いまのままでは、たいして儲からない」 と、近くに住む女と契約して地獄商売をするようになった。 客はひとりで出合茶屋にあがる。客の好みに応じて、茶屋が女を呼び寄せるという仕組みだった。 女のほうでも秘密をたもてるため、近所に屋敷のある御家人の

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    t_f_m 2023/09/05
    2020年12月の記事
  • 江戸時代の地者「地獄」というお仕事【前編】 ~陽は売女にあらず、密に売色する素人女~ | 歴史人

    「地獄」と呼ばれるセックスワーカーがいた。 『守貞謾稿』(喜多川守貞著)は地獄について―― 坊間の隠売女にて、陽は売女にあらず、密に売色する者を云ふ。天保以来、とくに厳禁なり。しかれども往々これある容子なり。 江戸地獄、上品は金一分、下品は金二朱ばかりの由なり。自宅あるひは中宿有りて売色する由なり。 ――と述べている。 つまり、町中に普通に暮らしていて、ひそかに売春に従事している女を地獄と呼んだ。 揚代は、上は金一分、下は金二朱だから、かなり高い。セックスワーカーとしては高級と言えよう。 客の男と性行為をするのは自宅、あるいは中宿(なかやど)と呼ばれる中継場所で、料理屋の二階座敷や、貸座敷など。 『寛天見聞記』は―― 裏借家などの幽室に籠り、地獄といふ女も有よし。 ――と述べており、これは自分の住む裏長屋に男を招く地獄であろう。 いっぽう、図1は、階下の障子に「御借シ座敷」と記されている。

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    t_f_m 2023/09/05
    2020年12月の記事
  • 行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【後編】 | 歴史人

    提重(さげじゅう)を描いた戯作(小説)に、『米饅頭始』(山東京伝著、安永九年)がある。それによると、幸吉・お米夫婦は生活に困窮し―― 是非なく渡世のために、お米を提重というものに出しけり。 といういきさつで、ついに幸吉は、女房のお米に提重をさせ、生活費を得ることにした。 図1は、亭主の幸吉が着替えを背負って、女房のお米を送っていくところである―― 幸「俺ゆえ、そなたは憂き苦労をするの」 米「おまえのためじゃもの、何の苦労でござんしょ」 女房が提重をするのは不貞でも堕落でもなく、あくまでセックスワーカーの仕事という認識だった。 これは、当時の社会の認識でもあった。 現代で言えば、夫が失業したので、それまで専業主婦だったが性風俗店で働くことになった。夫は納得し、に感謝している――こういう状況になろうか。 ところで、図1の安永九年(1780)は、寛政の改革以前で、しかも、お米は提重を手にさげ

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    t_f_m 2023/09/05
    2021年3月の記事
  • 行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【前編】 | 歴史人

    吉原は公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼(こうしょう)だった。 江戸幕府は、吉原以外での売春、つまり私娼(ししょう)を禁じた。しかし、これはあくまで建前であり、実態は野放しに近かった。 江戸の各地には岡場所と呼ばれる私娼街がたくさんあり、公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたといってよい。 ところが、天明七年(1787)に松平定信が老中に就任し、断行した政治改革――寛政の改革は、杓子定規そのものだった。私娼は厳禁され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。 寛政年間の見聞を記した『梅翁随筆』(著者不詳)は、岡場所の取り払いは徹底していたと記したあと―― 夫より町に住て色を売る事あたはざるゆへ、女商人と成り提重へ菓子を入て、屋しきの部屋々々、辻番所に入来り情を商ふと成。此女を提重と異名して大に流行せしが…… と述べている。 来、提重(さげじゅう)は提重箱の略である。

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    t_f_m 2023/09/05
    2021年3月の記事
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