ウォーホルの芸術―20世紀を映した鏡 [著]宮下規久朗[掲載]週刊朝日2010年6月4日増大号[評者]青木るえか■ここまで怖いウォーホル本はない 読みすすむうちに気分が重くなってきて、読み終わったらすっかり暗くなってしまった。それはこの本がよくない本ということではなくて、いい本だからそういう読後感になるのだと思う。 アンディ・ウォーホルの作品について論じた本だが、あまり論じているという感じではなく「こういう作品はこういうモチーフでこういう時代背景でこういうふうに世の中に出てきた」という事実を詳細にたんたんと書いてある。そのたんたんとした事実の積み重ねが、なんだか異様に重苦しくどんよりした読後感を呼ぶ。ウォーホルの作品には死の匂いがする、なんて話を聞いたことがあり、その時は「何をかっこつけたようなことを」と思ったもんだが、ここでたんたんと突きつけられた作品を次から次へと見ていくと「アンディ・
宮下教授: 美術史学というのは美術作品を研究する学問なんです。ふつうは歴史学というのは文字を扱うのですが、美術史学では文字に現れないものを扱うということで、文字よりもイメージのほうが豊かな情報を持ってるんですね。コンピュータの画素数でも文字よりも圧倒的に画素数のほうが大きいということがありますでしょ。ですからイメージから情報を引き出す、あるいはイメージの語る言葉を読み解くというのが美術史学なんですね。ですから、美術鑑賞とか芸術とか言うとちょっと主観的な部分もあるんですがそういうものではなくて、あくまでも視覚資料を歴史学の題材として扱う、視覚資料からいろんな情報を引き出す、それが非常に面白いんですね。イメージっていうのはどれだけでも情報が引き出せますから、尽きないところがある。しかもイメージとか絵が好きな人にとってはそれが趣味になる。 なるほど。興味を持ったきっかけはなんだったんですか? 宮
この小編(29分)をボクは何度観たことだろう。 我が家に遊びに来た方でこれを強制的に観せられた人の多いことと言ったら。 まぁ興味がない人にとっては災難に近いかもしれない。 でも本当に何度観ても飽きない名作中の名作だと思っているし、そのわりにはみんなが知らなすぎると思うからまた観せたくなるんですよね。 あなたはユーリ・ノルシュテインをご存知ですか? ロシアのアニメーション作家。いや、ソ連の、と言ったほうがしっくりくるんだけど。 アニメと言っても、いわゆる日本のテレビアニメとは全然違うんです。 切り紙アニメとでもいうのかな、切り紙をカメラの前で動かして、実写とも合成したりして丁寧に時間をかけてじっくり作る。 その深い詩情。幻想的なタッチ。センチメンタルな主題・・・ どれをとってもまさに芸術としかいいようがありません。 内容もまさに「詩」であって、散文的なストーリーは(この「話の話」に限っては)
東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日~1999年(平成11年)5月6日)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる[1]。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民[2]。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。 来歴・人物[編集] 船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)の日本画科へ進学した。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学。1934年日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、
浜松市秋野不矩美術館 秋野 不矩(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日 - 2001年(平成13年)10月11日)は、静岡県出身の女流日本画家。本名はひらがなでふく[2]。日本画家沢宏靱との間に6人の子を儲けた[3][4]。絵本画家の秋野亥左牟は次男[5][6][7]。 昭和初期より西山翠嶂門下で官展の入選・特選などを重ねた。戦後は画塾を出て「創造美術」(現創画会)の結成に参画する一方、美術学校(現京都市立芸術大学)にて後進を指導。50代で赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。 略歴[編集] 神主の父[8]惣吉と母かつの五女として静岡県に生まれる[9]。貧乏な田舎暮らしで玩具も絵本もなかったため[10]、好きな絵を描いて育った[11]。小学六年の時、東京の美術学校出身の教師と親しく接し、ゴッホやゴーギャンの絵画を知る[11][12]。
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "田中一村" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) 田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育った、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げた[1]。 奄美市名瀬有屋38番地3には、最後の10日間を過ごした家が、田中一村終焉の家とし
地球観測衛星にはいろいろありますが、ランドサット7号は可視から熱赤外まで8バンドの観測波長を持っており、複数の波長における光学観測を今も行っています。 で、このランドサットの撮影した画像が公開されているのですが、中にはものすごいインパクトあふれる画像も多く、今まで考えたこともなかったような新しいインスピレーションを与えてくれる手助けになるようなイメージばかりで、単純にデスクトップの壁紙にしてもキレイです。 詳細は以下から。 中国のボゴダ山。塩湖と砂丘のがミックスされており、世界でも数少ない海面よりも土地が低い場所の一つ。 オランダ南部のデルタ地帯。1953年に起きた「北海沿岸大洪水」では大潮と北西の暴風雨が重なり高潮がアムステルダム平均潮位より4~5m高くなり堤防決壊67カ所、堤防越流400カ所におよび20万haの浸水、1835人の死者、20万頭以上の家畜が死ぬ」という大水害になり、このオ
「大祖国戦争」とは第二次世界大戦におけるソビエト社会主義共和国連邦とドイツ第三帝国との戦い、いわゆる「東部戦線」をソ連側から見た呼び方です。第二次世界大戦は、ソ連にとって文字通り民族の絶滅をかけた戦いであり、その死者の数は両軍合わせて2000万人以上とまさに「史上最悪の戦争」と呼ぶべきものです。 その戦争の様子を描いたいわゆる「戦争画」は戦中・戦後にかけて多く制作され、ソ連政府の宣伝工作のため盛んに用いられてきたわけですが、現在を生きる私たちの目から見ると得も知れぬ空しさを醸し出すものばかり。英雄的な表現の中にも、一個人としての兵士の心情と残された家族の悲哀が描かれており印象に残るものが数多くあり、今なお争いが絶えない世界に対し何かを訴えかけているかのようです。 詳細は以下。 Soviet War Paintings 1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破りドイツはソビエト連邦に進出しま
一見、世界をありのままに切り取った写真のようでありながら、現実ではありえないことが写っている不思議な写真あれこれ。自分の見知った部分が多く写っているだけに、違和感を感じて奇妙な気分になれます。 詳細は以下から。 漫画ではよくある表現ですが…… 中の物が出てきてしまう絵画 アイロンがけでぺちゃんこ 背中を写す鏡 あまり成長して欲しくない植物「homo sapiens」 シートを敷くように道路を造る男 道路工事関係者の休息中 建造中のテトリス エッシャー風のエスカレーター これらはスウェーデンに住むErik Johanssonさんによる作品。以下の公式サイトからは他の多数の写真が見られます。 alltelleringet.com http://www.alltelleringet.com/
大丸百貨店は、18世紀初頭創業の呉服店をルーツに持ち、近畿に地盤を置く名門百貨店である。心斎橋店は戦前の百貨店建築では、その豪華において横綱クラスと言われる近代建築である。2003年には近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織「DOCOMOMO」(88年設立)に世界水準の建築として認定されている(当研究会からも文化財選定についての検討を要望している)。 この建築を見るとき、戦後すぐの焼け野原の中に残った街の様子を写した写真を思い出す。昭和50年代ごろまで戦火で焼け残った煉瓦造り、鉄筋コンクリートの建物は修理して使われていたが、現在では建て替えられている。 そんな中で大丸心斎橋店は、木造が焼失した後、大正14年に心斎橋筋側が、昭和8年に御堂筋側が地下鉄の開通に合わせて完成した。設計はヴォーリズ建築事務所である(宣教師で建築家の米国人ヴォーリズは終戦工作にも尽力したと言われている)。 外観
形も大きさも違う石や岩をバランスだけで上に積み重ねるパフォーマンスアート。あまりにもできすぎているため、画像加工したものか、何かトリックがあるのではないかと疑ってしまうほどにすごい光景となっています。 ちょっと風が吹いただけでもバランスが崩れてしまいそうですが、一度積み上げるとなかなか崩れないようです。 詳細は以下から。 A-stone-ishing: The artist who balances heavy rocks on top of each other | Mail Online 接触部分がほとんどないのになぜか崩れない。 異世界の風景のようです。 製作者のBill Dan氏。積み上げるときは完成時のイメージを持たずに行うとのこと。 石だけでなくレンガも積み上げます。 靴も乗せられる。 Bill氏の元にはあまりにも多くの疑いの声が届くため、トリックがないことを説明するのに疲れて
12Dec2007水墨画で描かれる摩訶不思議なShinichi Osawa(大沢伸一)“Last Days”PV katayama | 2007/12/12 09:42 AM Shinichi Osawa - Last Days 本人名義では初めてのアルバム『The One』のジャケットにヒロ杉山率いる〈ENLIGHTENMENT〉にフィーチャーするなど、ビジュアル表現にもセンスを感じさせる大沢伸一ですが、アルバム収録曲“Last Days”PVも、ヒネりアリ。〈エレクトロ〉サウンドに乗せて、さながら動く〈鳥獣戯画〉な世界観が展開される、摩訶不思議なものに仕上がっています。 水墨画と3Dが一緒くたになった“Last Days”PVを手がけたのは《チームラボ株式会社》。彼らの開発した〈水墨空間〉という技術によって制作されました。 〈エレクトロ〉と水墨画。正直、まったく真逆のテイストなのです
スペイン、トレドの象嵌細工 象嵌(ぞうがん、象眼とも)は、一つの素材に異質の素材を嵌め込む工芸技法。 象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味があり、金工象嵌・木工象嵌・陶象嵌等がある。その中の金工象嵌は、シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わったとされる。江戸時代には京都などに優れた職人が多数生まれ、日本刀の拵えや甲冑、鏡や根付、文箱、重箱などに腕を振るった。素材としては金属だけではなく、彩色した木材や骨片、貝殻、陶磁器なども用いられる。日本国内に現存する最古の象嵌製品は石上神宮の神宝「七支刀」[1]。 製作方法[編集] 京象嵌として有名な布目象嵌(鉄地への金銀装飾)を例として挙げる。 まず鉄、真鍮、四分一(銀と銅の合金)生地(主に鉄)の表面に専用の鏨で布目模様の溝を彫る。 次に薄く延ばし型取りした純金や青金、純銀の板・線をそのくぼみに金槌を使いながら埋め込
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