享禄3年(1530年)1月3日(または5月4日)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれた。傅役は重臣の入田親誠が務めた。幼名は塩法師丸。 天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗った[5]。 義鎮20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。 天文19年(1550年)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こした。 2月10日、塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去した(二階崩れの変)。義鑑の遺言により、義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となった。同時