南魚沼市で開催中の「愛・天地人博南魚沼」をPRする公式キャラクターが5日、誕生した。「天地人」主人公の直江兼続らと同市特産のコメをモチーフにした“3人”は、ほのぼのとした雰囲気だが、愛の精神を世界に広めるために奮闘するという。 キャラクターは、漫画家はらたいらさんの弟子で千葉大学講師の佐藤有作さん(東京都)がデザインした。名前は同市の全小学校の児童にアンケートして決めた。 兼続の幼少期がモチーフの「こめつぐ君」は、魚沼産コシヒカリの米粒をかたどった胴体から小さな手と足をのぞかせ、愛の前立てのかぶとをかぶる。主君の「かまかつ様」は上杉景勝と玄米と釜、「しゃもじー」は2人が薫陶を受けた雲洞庵(うんとうあん)の住職北高(ほっこう)全祝(ぜんしゅく)としゃもじをイメージした。 同博は先月開幕、会期は12月27日まで。 2009年02月06日
上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は十三代将軍義輝には心服していたが、その実弟義昭に対しては異なっていたようだ。しかし義堯が協力を要請したことで、それまでの態度を一転させて反信長陣営に加わった。謙信が義堯に全幅の信頼を寄せていたことが分かる。続群書類従本伊勢系図別本(巻百四十一)の伊勢貞孝の項にあるように、足利義輝の男子が六角氏の養子になっていた可能性も否定できない。 まず最初に、謙信の奉行人河田長親の子孫河田文子氏(福島県福島市)に伝えられた義堯書状(18)を見てみよう。この義堯書状は、義堯と上杉氏の初期の交渉を伺わせる。 其以後不得便風候間、無音非本意候、其地雖為変化、誠ニ堅固 之由、無比類儀、於義堯大慶候、連々如申、向後弥御
上杉景勝(うえすぎ・かげかつ) 1555~1623 上田長尾政景の二男。母は上杉謙信の姉で、謙信の甥にあたる。弘治元年(1555)11月27日に生まれ、幼名は卯松。通称は喜平次。長じて長尾顕景と名乗る。従三位・弾正小弼・参議・権中納言。妻は武田信玄の娘。 永禄7年(1564)に父の政景が没したのち、叔父・上杉謙信の養子となって母や姉妹と共に越後国春日山城に移り、天正3年(1575)に景勝の名乗りを与えられた。同年の『上杉家軍役帳』によると、軍役負担は375人。 天正6年(1578)3月に謙信が没すると上杉景虎と家督相続をめぐって戦い(御館の乱)、武田勝頼と盟約を結んで景虎を破り、謙信の跡目を相続して越後国春日山城主となる。天正8年(1580)8月頃までには御館の乱を通じて上・中越の諸豪族をその支配下に置き、全幅の信頼を寄せる重臣・直江兼続を家宰として重く用い、共に支配体制を確立した。 天正
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