歴史上の人物の評価というものは難しい。新たな史料の発見や再解釈、研究の進展によって、従来の見方が大きく変わることもある。かつて「革命児」「破壊者」と呼ばれた織田信長が、実は保守的な人物であったという近年の再評価は、その最たるものだろう。 星海社から7月に刊行された広中一成『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたか』(星海社新書)もそうした再評価の試みの一つかもしれない。盧溝橋事件で日中の戦端を開き、太平洋戦争で日本陸軍史上最悪の作戦とも言われたインパール作戦を主導した牟田口は、「愚将」といった評価がつきまとう人物だ。本書で著者の広中氏は、牟田口個人への攻撃に帰せられがちなインパール作戦について、牟田口個人の軍歴や日本陸軍の置かれた環境を辿り、牟田口個人でなく「愚将」を生んだ日本陸軍という組織の問題を、牟田口個人の評伝という形で明らかにしようとしている。 『牟田口廉也「愚将」はいかにし
「断乎反撃せよ!」知られざる戦記 「最後まで善戦敢闘し、武士道に殉じる」 「パーフェクト・ゲーム」。アメリカ軍がそう言って驚嘆した日本陸海軍の作戦をご存じでしょうか。昭和18年(1943)7月のアリューシャン列島キスカ島守備隊5,200人の全員脱出劇です。 しかしこの奇跡的な成功は、その約2ヵ月前の同じアリューシャン列島アッツ島における、2,600人の守備隊玉砕の悲劇があったからこそといえるものでした。 昭和17年(1942)6月8日、日本軍はアメリカ領のアリューシャン列島アッツ島、キスカ島に上陸、占領します。目的はミッドウェー作戦の陽動と日本本土空襲の阻止、さらにアメリカとソ連の遮断の意味があったといわれます。 しかしミッドウェー海戦後、日米の主戦場はガダルカナル島をはじめとする南方に移りました。日本軍の主力もそちらに向けられたため、北の2島の守備隊は取り残されることになり、さらに昭和1
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