タグ

ブックマーク / tokyo1923-2013.blogspot.com (2)

  • 【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】

    語/English 1923年9月2日の夜。19歳の演劇青年、伊藤国夫は興奮していた。軍が多摩川沿いに展開し、神奈川県方面から北上してきた「不逞鮮人」集団を迎え撃って激突しているという噂を耳にしたからだ。戦場は遠からずこの千駄ヶ谷まで拡大してくるに違いない。彼は二階の長持の底から先祖伝来の小刀を持ち出し、いつでも使えるように便所の小窓の下に隠しておいて、向かいの少年とともに家の前で杖を握って「警備」についた。 だが、いつまでたっても何も始まらない。業を煮やした彼は、千駄ヶ谷駅近くの線路の土手に登って「敵情視察」を試みる。すると闇のなか、後ろの方から「鮮人だ、鮮人だ!」という叫び声が聞こえるではないか。さらに、こちらに向かっていくつもの提灯が近づいてくるのが見える。朝鮮人を追っているのだ。よし、はさみ撃ちにしてやろう。伊藤は提灯の方向にまっしぐらに走り出した。 (以下、引用) そっちへ走

    taraxacum_off
    taraxacum_off 2013/09/27
    「9月、東京の路上で: 【ある演劇青年の受難、そして間違えて殺された日本人について】」。関東大震災のときの朝鮮人虐殺
  • 【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】 

    語/English ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略) 丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略) 徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届ける

    taraxacum_off
    taraxacum_off 2013/09/27
    「9月、東京の路上で: 【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】」。関東大震災のときの朝鮮人虐殺
  • 1