富山商・上田海翔投手(3年)は12イニング目に力尽きた。最後は犠打を一塁に悪送球してゲームセット。161球の大熱投だった右腕は「みんなが守ってくれて粘り強く戦っていたのに、最後は自分が…」と大粒の涙を流した。 3回に1-1とされたがクーリングタイムで「頭が整理できた」。再三の好守にも助けられ、コーナーに投げ分ける本来の投球が生きた。4回以降は無失点で延長戦にもち込んだ。 最大のピンチは延長10回無死満塁。1点取られたらサヨナラ負けの場面だったが、相手のスクイズに鋭いチャージをかけると、グラブトスで投-捕-一の併殺を完成。この回を無失点で切り抜けた。 「最後まで自分が投げるつもりでした。絶対負けたくない気持ちで投げていました。みんないつも通りのプレーができていた。楽しんでできました」 主将でもある上田の力投と、それを支えた堅守。引き締まった試合を演出した富山商ナインがグラウンドを離れる際、甲
目まぐるしく変化する世界経済と地球環境。かつてない変化とスピードの違いに我々はどう向き合う。時代を牽引する賢者のターニングポイント賢者の選択。静岡県清水区。江戸時代の終わり頃に創業し、この港を拠点にして港湾物流事業を中心に発展してきた鈴与株式会社。鈴与は次々と新たな事業分野を開拓し、現在では140社を要するグループ企業へと成長してきた。1991年に参入した航空事業では富士山静岡空港の開港によって静岡発のエアラインが加速度的に充実しつつある。鈴与は港で発展してきた。これから空の港で発展する。創業200周年の節目を担う老舗企業8代目鈴木与平の未来戦略に迫る。 老舗継承への葛藤 鈴木最後の最後までそれはすごく葛藤がありましてですね。最後に父からお前が本当に嫌なら継がなくてもいいよという話をされて、なんとなく根負けしたと言うか。親父の愛情を感じたと言うか。それでその気になったんですけど。 蟹瀬その
webスポルティーバ野球の記事一覧高校野球他魔球を操った「甲子園優勝投手」日大三・吉永健太朗の今。みどりの窓口に勤務、声をかけられたのは「この2年でひとりだけでした」 (3ページ目) 「三高の吉永」がヒーローになった日 2年の秋からエースとなり、第41回明治神宮野球大会でチームを優勝に導き、3年になると春のセンバツ大会ではベスト4に進出、そして満を持して、夏の甲子園へと挑んだ。 「じつは甲子園よりも東京予選決勝の早実戦のほうが記憶に残っているんです。勝たなければいけない空気のなか、接戦になりプレッシャーを感じたのを覚えています。ここで勝てるか勝てないかで、僕はもちろん仲間たちの人生も左右すると思ったので、あれは忘れようにも忘れられない経験になりました。だから逆に甲子園はプレッシャーから解放された感覚があったんです。ただ、調子がよすぎた初戦で右手中指の爪と皮膚がはがれてしまい、2回戦の開星高
社会人野球をあがった原田監督のもとに、「平安の監督をやってくれないか」とオファーが届いたのは1992年冬。でも、大好きな平安からの話であっても、「やります!」とすぐには返事ができなかった。平安の監督がいかに大変な仕事なのか、高校時代から見ていたからだ。その後、恩師や仲間の後押しもあり、1993年秋から監督に就いたが、そのときに決意したことがある。 「これは“仕事”ではなく、“使命”やと。『お前が平安を何とかせぇ!』という使命を与えられている。仕事なんて思ったら、絶対にやってられません」 就任してすぐに始めたのが、名門校めぐりだった。高知商、高知、松山商、高松商……、名門に流れる空気を肌で感じるために遠征に出向いた。 忘れられない遠征となったのが、松山商との一戦だ。試合前から、ネット裏の熱心なファンが「平安よう来たのー!」と拍手で迎えてくれた。でも、帰るときには「おい、平安、もう来んなよ!」
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