東映動画では創立初期から労働者側と管理者側との労働争議が絶えませんでしたが、私が個人的に動画を習いに通わせてもらっていた1972年に入って、闘争は激化の様相を呈してきました。 映画界全体の観客動員が落ち込み、1971年11月には邦画大手のひとつ、大映が倒産する等の深刻な映画不況を背景に、親会社東映傘下の中でも利益率の少ない動画部門を縮小削減したいという会社側の意向が、東映動画を創設した大川博社長の死去(1971年8月)以降、はっきりと表面化してきたのでした。ノルマの強制、残業の増加と労働条件は厳しさを増していました。 私が東映動画に通わせてもらっていたのはちょうどそんな時期で、スタジオ内部も荒廃していた印象があります。 どこもガランとしていて、何のための部屋だったのか、2階の、暗幕で仕切られた大きな無人の部屋の、暗幕と窓との間の薄暗い通路の隅に、『わんぱく王子の大蛇退治』のオロチの巨大な頭