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考えるべきことに関するtetzlのブックマーク (2)

  • 片瀬久美子さんの事

    たとえ更新が遅くても気長に見てください。また、ここの特徴として、一旦書いた記事を修正して再投稿する事もあります。 コメントは承認制です。コメントを書いてもなかなか反映されない時には「コメントを見ている暇が無いのだな」と思ってやってください。 ===コメントされる方は、節度を守る様お願い致します。名無しやダブハン、マルチポストは御遠慮ください。頂いたコメントは、私の気まぐれにより無警告で削除したりしなかったりします。予めご了承ください。=== 初回公開日:2012年07月08日 最終更新日:2017年07月30日 1.はじめに(この記事を書いた動機) 片瀬久美子さんを御存知の方も多いと思います。もしも御存知でない方にとっては、この記事はあまり意味が無いかもしれないので、その点は予めお詫びします(但し、後半の5.以降の項目についてなら、ある程度は独立してお読み頂けるかもしれません)。 さて、私

    tetzl
    tetzl 2012/07/09
    わが事として。川上弘美の「センセイの鞄」で、何だっけな、「大人は翌日も笑って互いに挨拶できなくなることをしてはいけない」的な台詞があったんだけど、そうしてみても思いやりのあるエントリだと思うな。
  • 「当事者」を 尊重しつつ、依存しない。 - hituziのブログじゃがー

    当事者の意見を 尊重する。当事者の声を きく。だいじなことですよね。その当事者が 社会的に排除されてきた 現実があるなら、きちんと はなしを きくことから はじめないといけない。 いろいろな社会問題が あるなかで、これは ゆるせないと感じ、その問題の解決に とりくむことがあります。そのとき、「わたし」の主体で、「わたしは こんなことは ゆるせない」という問題意識から出発する必要があると おもいます。 逆に、差別に反対したり、日社会の問題に とりくんだり、なぜ そういう社会運動を「わたし」はするのか。それを、いわゆる「当事者」が「いやがっているから」というリクツでやっていると、当事者とされる ひとが「いやがってくれないと こまる」ってことになってしまう。 そうなると、自分の主体よりも「当事者」の主体に依存してしまうことになる。「わたしが いやなんだ」というリクツで うごかないかぎり、「運動

    「当事者」を 尊重しつつ、依存しない。 - hituziのブログじゃがー
    tetzl
    tetzl 2010/11/01
    「「わたし」の主体で、「わたしは こんなことは ゆるせない」という問題意識から出発する必要がある」「差別に反対するのは、わたしのリクツであり、わたしの責任」「ただしさを 当事者に まるなげしてはいけない」
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