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ブックマーク / kenmogi.cocolog-nifty.com (3)

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「表現の洗練」と「翻訳可能性」(芥川賞受賞作、黒田夏子『abさんご』に触発されて)

    この度、芥川龍之介賞を受けられた黒田夏子さんの『abさんご』を、月刊文藝春秋で読んだ。 横書きで、ひらがなを多用したこの小説は、すでに報じられているように、非常に洗練されており、また、言葉のクオリアの織りなす世界として、広がりを持っている。芥川賞を受けるにふさわしいだろう。 賞の命は、その選考で決まる。今回のような作品を選ぶことで、芥川賞は、商業主義とイコールではない矜持を示していると言える。しかし、その姿勢が逆に話題を呼び、黒田さんの小説も売れるのだから、賞の設立者の菊池寛の言う「興業」としても、奥が深い。 黒田夏子さん、そしてそれを選んだ選考委員の方々、賞を運営している日文学振興会(その母体である文藝春秋)は、以上のような意味でgood job!である。 さて、『abさんご』を読みながら、私は考えていたことが一つあった。 私はカフカの『審判』や『城』が好きだが、これらの小説を原語であ

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 日本の大学のガラパゴス化

    最近、さまざまな大学では、「就職」への対応を売り物にしているのだという。大学三年の秋から就職活動が始まるという日の企業の「慣行」に合わせて、一年生の時からキャリア教育をするのだという。 このような風潮は、二重三重に間違っていて、最終的には日の国益を損すると私は考える。 日の大学が、日の企業の予備校化するということは、日の大学のガラパゴス化をますます加速化させる。現状でも、日の大学は、日で生まれ、日語を母国語とする学生しかほとんど志望しない「日でしか通用しない商品」となっている。日の企業への就職の予備校となることは、つまりは、日の大学が日の企業に就職することに興味がある人以外には、進学することを検討するに価しない存在になることを意味する。 日の大学で学ぶ学生たちにとっても、就職予備校化は長い目で見れば致命的な欠陥となりうる。なぜならば、大学で身につけるスキルが日

  • 茂木健一郎 クオリア日記: ギャップ・イヤー

    東京の某所のカフェで、仕事をしていた。たくさんやらなくてはならないことがあって、ちょっとあせっていた。 ふと顔を上げると、ヨーロッパから来たらしい青年が、前のテーブルに座っていた。バックパックを背負い、真剣な顔をしてを読んでいる。そのが、Roger PenroseのEmperor's New Mindだったので、思わずはっとした。 ちょっと背伸びをするふりをして、テーブルを立って、滅多にそんなことはしないのだけれども、声をかけてみた。 「こんにちは、失礼ですが。ペンローズを読んでいるんですね?」 「ああ、はい。」 「学生さんですか?」 「いや、そうではありません?」 「旅行中?」 「はい。去年、大学を卒業ました。」 「どこの大学を出たのですか?」 「ケンブリッジ大学です。」 「ああ、ぼくもケンブリッジに留学していました! 何を専攻していたんですか?」 「物理学です。」 「じゃあ、ぼくと

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