「ことば会議室」・「ことばについての会議室」をblog化しようと考えてのもの。 「ことば会議室」は1997年から2004年まで、「ことばについての会議室」は「ことば会議室」からcgiを替えて、2005年10月まで、ともにBBSで運営して参りましたが、この度blogとして再出発しました。
毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気鬱になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「
以前の記事の時に自分が全然コミットしてないのが不思議なのですが(笑) こういう記事の時って、どうして語彙などの単純な知識の面ばかりが取り上げられるのでしょうね。今回のように辞書が絡んでる事例では当然だとしても。まあ確かに言葉の重要な一面ではありますけれど。 それよりも、ライティングや場面に合ったコミュニケーションの方法などのテクニックをきちんと教える体制が整っていない、ということの方が重要な問題だと考えています。現役の国語教師の方もその辺りは頭が痛いようで。 日本語は確かに母語なのである程度不自由無く使いこなせるものでもあるのですけれど、トレーニングしなければ身につかない技術もたくさんあると思うのです。 こうやって色んな所で国語力低下を叫ぶニュースが出回る割には年末年始辺りに国立国語研究所があわや廃止か、という事態になったり、大阪ではこんな話題が持ち上がったりで↓ http://socio
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