eduに関するtkawashimaのブックマーク (2)

  • 日本のポストモダン教育学の原点?(続) - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20100720/p3前半を書き直してみた。 日の人文社会科学における「ポストモダニズム」の格的受容はいつごろ始まったのであろうか? 「1968年」の余燼冷めやらぬ中、フランス文学出自の書き手を中心として、ジャック・デリダやミシェル・フーコーらの紹介は70年代から精力的になされてきたが、歴史学や社会学のアカデミック・サークルの中で彼らの業績が表だって踏まえられ議論されるようになるのは、格的には1980年代以降のことである、と言ってよいだろう。デリダ、フーコー、そしてとりわけジャン・ボードリヤールを踏まえた内田隆三の1980年の論文「<構造主義>以後の社会学的課題」(『思想』676号)は社会学周辺ではとりわけパスプレーキングな仕事として受け止められた。 稿では80年代日教育学におけるポストモダニズム受容の一

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  • 日本のポストモダン教育学の原点? - shinichiroinaba's blog

    森直人のエントリに補足。 ただ単にイリイチ流脱学校論のアカデミック教育学における受容のさきがけというにとどまらず、日社会科学におけるポストモダニズム受容の、最初期における水準を示すと思われる、故森重雄の「批判的教育社会学」の問題意識は大略以下のようなものである; 「教育」というカテゴリーは決して自明の、あるい歴史貫通的に人類普遍の何ものかではない。伝統的な(規範的)教育学はしばしばそのことに盲目であった。そもそも「教育学」は「教育」という対象を分析する科学ではなく、「教育」という営みの内在的構成要素である。 これに対して「教育社会学」は「教育」を外的な対象とし、その客観的な分析を標榜する。しかし素朴なタイプの「教育社会学」=「社会学的教育分析」は「教育」という対象の実在性も、「社会学」という方法の堅固さも疑わず、「社会学」によって「教育」を分析しようとする。 しかし第一に、そもそも「教育

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