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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (4)

  • 尾崎放哉選句集

    青空文庫版まえがき このHTMLファイルには、種田山頭火と並んでいわゆる自由律俳句を代表する俳人、尾崎放哉(おざき・ほうさい。一八八五―一九二六)の作品を年代を追って並べた。放哉の句作は早く中学時代に始まっており、四一歳で死去するまでの足どりを十の時期に区分してある。 ここに掲載したのは、もとより放哉の句すべてではなく、ごく一部にすぎない。選択にあたっては、若い人々に読まれることを願い、できるだけ平明なものに絞った。また、各章のはじめにはその時期の放哉についての簡単なコメントをつけてある。 放哉の句は表記が異なって公表されているものが少なくない。デジタル化にあたり、『尾崎放哉句集』(彌生書房)『尾崎放哉全句集』(春秋社)を底とし、表記が異なるものは双方を掲載した。( )付きの句の表記は『尾崎放哉全句集』に基づく。〈編集―青空文庫・浜野〉 ○目次 中学時代|一高時代|大学時代|東京時代|京

    tokuninac
    tokuninac 2021/10/02
    元気出る
  • 須川邦彦 無人島に生きる十六人 - 青空文庫

    これは、今から四十六年前、私が、東京高等商船学校の実習学生として、練習帆船琴(こと)ノ緒(お)丸(まる)に乗り組んでいたとき、私たちの教官であった、中川倉吉(なかがわくらきち)先生からきいた、先生の体験談で、私が、腹のそこからかんげきした、一生わすれられない話である。 四十六年前といえば、明治三十六年、五月だった。私たちの琴ノ緒丸は、千葉県の館山湾(たてやまわん)に碇泊(ていはく)していた。 この船は、大きさ八百トンのシップ型で、甲板から、空高くつき立った、三の太い帆柱には、五ずつの長い帆桁(ほげた)が、とりつけてあった。 見あげる頭の上には、五の帆桁が、一に見えるほど、きちんとならんでいて、その先は、舷(げん)のそとに出ている。 船の後部に立っている、三木めの帆柱のねもとの、上甲板に、折椅子(おりいす)に腰かけた中川教官が、その前に、白い作業服をきて、甲板にあぐらを組んで、いっし

    tokuninac
    tokuninac 2021/08/22
  • 坂口安吾 安吾の新日本地理 飛騨・高山の抹殺――中部の巻――

    飛騨(実にメンドウな字だから以後カナで書かせてもらいますよ)は日の古代史では重大きわまる土地であります。 隣りの信濃はタケミナカタの神がスワ湖へ逃げてきて天孫に降参したという国ゆずり事変の最後の抵抗地点で日神話では重要なところだ。ところが、現天皇家が当に確立の緒についたとみられる天武持統の両御夫帝(天武は天智の弟で、天智の御子大友親王≪弘文天皇≫を仆(たお)して皇位に即き、実質的には現天皇家の第三祖に当られる御方のようです)はヒダとスワの両国に対して特にフシギな処置をほどこしております。スワは信濃の国に属しておりますが、一時分離されてヒダ、スワと二国特別の扱いをうけた。その理由は国史の表面には一度も説かれておりません。特にヒダは古代史上、一度も重大な記事のないところで、昔から鬼と熊の住んでいただけの未開の山奥のようだ。ところが国史の表面には一ツも重大な記事がないけれども、シサイによ

  • 芥川龍之介 ひょっとこ

    橋(あずまばし)の欄干(らんかん)によって、人が大ぜい立っている。時々巡査が来て小言(こごと)を云うが、すぐまた元のように人山(ひとやま)が出来てしまう。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。 船は川下から、一二艘(そう)ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵は伝馬(てんま)に帆木綿(ほもめん)の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳(みよし)には、旗を立てたり古風な幟(のぼり)を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭を、吉原(よしわら)かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一、二」と拳(けん)をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、滑稽(こっけい)としか思われない。お囃子(はやし)をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の

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