本天沼 三峰 様と 厳島 さま 本天沼稲荷神社 あたりをぶらぶら歩いている途中にばったり出会えた、聖域です。 鳥居の文字がかすれて見えず、祠に表示しているのでやっと神様の名前がわかるくらい、小さな神社。 地元の人が大切にしているのがわかる、きれいに掃き清められた空間。 この場所が生き続けていくれているありがたさを感じます。 youtu.be
youtu.be 神社内の立て札には下記のように書かれていました。 この稲荷神社は、江戸時代に中野村の名主をつとめた堀江家の敷地(約二万一千平方メートル)の東北の隅に位置しています。 東北の方角は古来、鬼(おに)や災難が入ってくるという鬼門(きもん)として忌(い)み嫌われていました。 このため、堀江家では、敷地内に神を祀(まつ)って鬼門除けとしたものです。 堀江家文書によれば、中野宿で市場の繁栄と安全のために祀(まつ)った市神という神社の記録があり、これが明徳稲荷なのではないかとも考えられます。 大正時代に地元の人達が堀江家から稲荷神社を譲(ゆず)り受け、現在にいたっています。 関東大震災と第二次世界大戦の際に罹災(りさい)しているため、 江戸時代の社殿や、古記録は残っていませんが、狐(きつね)の彫り物のある慶応(けいおう)三年(一八六七)の手水鉢(ちょうずばち)にわずかながら往時をしのぶ
youtu.be カッコウの名所 幸稲荷神社・瘡護神社 江戸時代、増上寺の周辺はたくさんのお寺に満ちていました。 徳川家の菩提寺、仏教の学校・寄宿舎としての役割、諸国大名からの崇敬、 参拝者をもてなす場所。巨大な宗教聖地。 明治維新で廃仏毀釈が起こり、お寺が管理していた神社を引き受けたのが こちらの神社。その前から寺からは氏子の希望で独立し、神社単体で 運営されていたという面白い歴史を持っています。 境内には水をかければ病が治るという霊石が残され、昔のご先祖様たちの 心の拠り所だったということを感じます。 東京タワーに鎮座するタワー大神宮の神事も司っている神社。 今も昔も増上寺エリアを象徴するような神様。
youtu.be 100年前の日本人の写真とともに 東京神社 蓮沼熊野神社 お寺のような静けさの神社。そう感じて見たら、すぐ隣には別当寺だった蓮花寺。 蓮花寺を中興した蓮沼法師の夢の話は、考えさせるものがありました
youtu.be 100年前の日本人の写真とともに 東京神社 十寄(とよせ)神社 コンビニ、そして駐車場を越えてたどり着く聖域。 とても東京らしくてわくわくします。 私が境内に入る前も参拝者がいて、手を合わせていました。 知る人ぞ知る神社のような雰囲気ですが、江戸時代、平賀源内が「神霊矢口の渡し」を描いたことで大勢の参拝者が押し寄せたそう。 江戸府内からハイキングするコースとしてもちょうど良い場所だったそうです。 まずこちらの十寄神社を参拝してから新田神社をお参りすると、良いらしい。 けれど、どうなんでしょうか。新田義興公の新田神社を参拝してからその配下の十寄神社を訪れたほうが十寄神社に祀られている十柱は喜ぶんじゃないかな、とふと感じてみたり。 どちらにしろ、参拝して、昔の人々を感じることができる聖域です
youtu.be 夏の早朝にうかがうと、お掃除の女性がいらっしゃいました。 ありがたい。 このような方々は、私にとって妖精のような存在です。 出会うと幸運、な気がするのです。 この神社の本殿は、実は八幡神社。蒲田駅の東から移転してこられたそう。 その左横には昔から鎮座している塚。 好きな人のために死んだ女性の伝説を残しています。 その女性のことを思いながら、お参りしました。
youtu.be 100年前の日本人の写真とともに 五柱五成神社・天五色辨財天 大通りから入り、細い路地の先に立つ聖域。 家々の中にあるというのに、神々しさが漏れ出ているような神様です。 五色の満願成就の証の旗は、まるで「私はここにいる」「願い事を祈りにおいで」と促してくださっているかのような美しさ・・・。 大通りのこんな近くにこんな清らかさを保っているのは、東京の神社らしい場所だと思います。
youtu.be 100年前の日本人の写真とともに 東京神社 和泉熊野神社 和泉熊野神社 掲示による解説 当神社は、社伝によれば、文永4年(1267年)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが当神社の創建である。弘安7年(1284年)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも社殿を修めたと伝えられる。江戸時代には寛永16年(1639年)と元禄9年(1696年)の両度にわたって社殿の改修をおこなった。別当寺は隣接する龍光寺であった[1]。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営で、明治4年(1871年)に修復したもの。また、境内には徳川家光が鷹狩りの途中で休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もご神木としてある。 杉並区教育委員会が記す 和泉熊野神社 の由緒 当社は旧和泉村の鎮守で、祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉
youtu.be 100年前の日本人の写真とともに 東京神社 太子堂八幡神社 太子堂八幡神社 公式サイトによる解説 https://www.taishido-hachiman.or.jp/ 今から千年ほどの昔平安時代の終わり頃、陸奥(宮城・岩手)の豪族安倍氏の反乱(前九年の役)を源頼義・義家親子が征伐におもむく途中、鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し、杯を交わし休憩をしたと伝えられています。 正確な文献の資料はありませんが、このことから永承六年(1051年)以前には、この地の守り神としてこの神社の歴史が始まっていたと考えられます。 御祭神は、当初はこの地を開拓した先祖をこの地の守護神としていたと考えられますが、後に源氏の氏神となった八幡神が、源氏の関東での領地拡大に伴い、しだいにその地の守り神として祀られるようになったことにより、この社にも八幡神がまつられるようになったと思われます。
youtu.be 首尾稲荷神社 増上寺地 近く 「来年の今月今夜、この月を僕の涙で曇らせてみせる」 熱海の名前を全国に広めた明治時代の小説「金色夜叉」。 明治30年1月~35年5月まで読売新聞に掲載された連載小説でした。 尾崎紅葉が執筆中に亡くなったため未完成のまま終わっても、 熱海を訪れる人が「お宮さんが蹴られたのはどこ?」と 探すことから、大正8年には「金色夜叉」の碑が建てられたほど。 物語の力って、すごいですよね。 ドラマティックなセリフや物語でも、尾崎紅葉自身は江戸っ子気質で面倒見よく 兄貴肌だったよう。 その紅葉の産土神(うぶすながみ)である首尾稲荷大明神。 家と家の間にはさまれるように建つ東京らしい小さなお稲荷様です。 増上寺から徒歩数分で行ける、文豪の故郷です。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く