無論、善悪を語らなければいけない瞬間も、人生においては出てきます。 最近だと、ぼくは切込隊長の「人を笑い者にする」という攻撃的な行為を、「悪」だと断罪しています。ここには相応の覚悟があります。 「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて ただし、善悪を語るということは、諸刃の剣の振るう行為であることを忘れてはいけません。少なくとも傲慢に陥っているのは間違いなく、さらに、自分が正しくない可能性もあります。 「個人」を出さず、「社会」の隠れ蓑に逃げるずるさ ではなぜ人は「好き嫌い」ではなく「善悪(お前は間違っている)」を語るのでしょうか。 それは、結局彼らが「個人」をさらけ出すことを恐れているからなのでしょう。 意外なことに、「好き嫌い」を語ることは、「善悪」を語るよりも、ときにむずかしいです。 たとえば賛否両論ある人物を評するとき、その人のことがどんなに好きであっても、つい周りの目を気
![「好き嫌い」ではなく「善悪」を語る、ずるい人たち|まだ仮想通貨持ってないの?](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/987eb90c108be8089e6700e45473e7aff1c94ee7/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.ikedahayato.com%2Fwp-content%2Fuploads%2Flivedoor%2F2013%2F4950f3e8.jpg)