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  • 有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。

    有野課長『MOTHER3』のときは、 どんなチームだったんですか? 糸井「3」は「2」のチームの 増築版で企画をはじめました。 チームの人数も増えましたし、 最初は3Dで開発をはじめたんです。 有野課長あれっ、3D? 『MOTHER3』もドット絵でしたよね。 最初は3Dで出そうとしていたんですか? 糸井結局出たのは、ドット絵だったんですけど、 最初はNINTENDO64で出そうとしていたんで、 立体化していたんです。 でも、途中の段階で完全に頓挫しちゃった。 「NINTENDO64最後のゲームは、MOTHERかな」 と言われながら作っていたんですが、 次のマシンが出ちゃうような時期になっても ずーっと行き詰まったままで。 これはもう「『MOTHER3』は出ない」という 宣言をしなきゃならなくなったので、 岩田さんと宮さんとぼくが集まって、 「3は出ない座談会」をしました。 有野課長あはは

    有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。
    toronei
    toronei 2019/09/20
  • 有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。

    有野課長岩田さんって『MOTHER2』には、 どう関わっていたんですか? 糸井『MOTHER2』のプログラムの 大元締めが岩田さんです。 有野課長噂で聞いたんですけど、 『MOTHER2』の開発が行き詰まっていたときに、 岩田さんが呼ばれたんでしたっけ? 「ぼくがやったら、こんだけできますよ」 みたいな話でしたよね。あれ、ホンマですか? 糸井そんな威張った感じじゃないけどね(笑)。 おおもとは当時の山内社長が、 「岩田さんに会ったらいい」 と言ってくれて会うことになったんです。 有野課長そのときはもう行き詰まってたんですか? 糸井行き詰まってましたね。 で、岩田さんに見てもらったらこう言うんです。 「いまあるものを活かしながら 手直ししていく方法だと2年かかります。 いちからつくり直していいのであれば、 半年でやります」と。 絵とか、必要な材料は揃っていたから、 岩田さんはそう言ってくれた

    有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。
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    toronei 2019/09/20
  • 有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。

    糸井『MOTHER』の制作チームは 千葉の市川にアパートを借りて、 全部屋を制作会社として改造して、 そこで泊まれるような仕組みを作りました。 有野課長1日中ゲームを作っていられるし、 寝られるところもあるわけですよね。 「ちょっとここなんですけど」って相談があれば、 「ああ、今から行くわ」みたいなことですか。 糸井他の仕事が終わった21時ぐらいから、 クルマで高速に乗って市川です。 有野課長遅いですねー。 仕事終わりに、そこまで行ってたんや。 糸井市川のアパートまで行って、 武器の名前を考えたりしてました。 有野課長あっ、武器の名前も? 糸井そう、「いいバット」とか、 コンセプトはぼくが全部考えないと。 有野課長へえー! 糸井武器まで考えたら、 ぼくが作ったゲームの意味が出ると思ったし、 『MOTHER』の制作チームも楽になったと思うんです。 無理なことを言うと心配事も出てくるけど、 向

    有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。
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    toronei 2019/09/20
  • 有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。

    有野課長そもそもなんですけど、 糸井さんは『MOTHER』を作るまで ゲームを作ったことはなかったんですよね? 糸井いま有野さんがやっているのが、 スーパーファミコンの『MOTHER2』で、 ファミコンの『MOTHER』が最初ですね。 有野課長「ゲーム作りたい!」って、 任天堂に行ったんですか? 糸井それは当です。 有野課長ああ、そうなんですか。 いろんなゲームメーカーがあるのに、 なんで任天堂だったんですか? 糸井「マリオ」のお世話になっていたんですよ。 ぼくは喘息なので、横になると咳が出ちゃって、 なかなか寝られなかったんです。 ずっと体を起こしていないと咳が止まらないから、 眠れない夜に体を起こして、 じっとしているときにできることといえば、 を読むか、ゲームをするか。 夜に起きてコントローラーを持っていたとき、 「マリオ」がぼくの喘息の友だちだった。 有野課長夜だから誰かを呼ぶ

    有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。
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    toronei 2019/09/15
  • 有野課長の挑戦部屋に、糸井重里がやってきた。

    お笑いコンビ・よゐこの有野晋哉さんが 名作ゲームに挑戦するバラエティ番組、 『ゲームセンターCX』(CSフジテレビONE)。 「株式会社ゲームセンターCX興業」の「有野課長」として 16年間、レトロゲームに挑戦しつづけています。 番組からの依頼で生まれた「ほぼ日手帳」が 世に出るタイミングで選ばれたゲームが、 糸井重里の手がけた『MOTHER2』。 試行錯誤しながらゲームを進める 有野課長の挑戦部屋を、糸井重里が訪ねました。 初代『MOTHER』の誕生から30年、 いまなお愛されるゲームの思い出を語ります。 CSフジテレビONE『ゲームセンターCX』の 収録内容を、ほぼ日編集バージョンでお届けします。

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    toronei 2019/09/15
  • 第4回 まだまだ、ネタはある。 | 幻の肋骨レコード。都築響一さんが持っていた! | ほぼ日刊イトイ新聞

    冷戦時代、旧ソビエト連邦では、 ジャズやロックンロールなどの 「ブルジョワ的、自由主義的」音楽は、 厳しい取り締まりの対象でした。 そこで、 ジャズやロックを聴きたいソ連の人は、 使い古しのレントゲン写真に 「ブルジョワ的、自由主義的」音楽を 刻み込み、地下流通させていました。 見つかれば収容所送り、それも覚悟で。 この、ほとんど知られていない 「ボーン・レコード」を、 あの都築響一さんが持っていた! 音への渇望、アートと自由の関係性。 興味深い話、たくさんうかがいました。 担当は「ほぼ日」奥野です。 都築 ああ、ありがとうございます。 ── そのときは、まだ学生‥‥ というか高校生くらいだったので、 都築さんのことは存じ上げず、 なんてカッコいい写真集なんだと。 都築 ああ、はい(笑)。 ── いや‥‥「写真集」とか、 「カッコいい」っていうこと自体、 わかってなかったと思います。 田舎

    第4回 まだまだ、ネタはある。 | 幻の肋骨レコード。都築響一さんが持っていた! | ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/05/04
  • 第2回 生命をかけて聴く音楽。 | 幻の肋骨レコード。都築響一さんが持っていた! | ほぼ日刊イトイ新聞

    冷戦時代、旧ソビエト連邦では、 ジャズやロックンロールなどの 「ブルジョワ的、自由主義的」音楽は、 厳しい取り締まりの対象でした。 そこで、 ジャズやロックを聴きたいソ連の人は、 使い古しのレントゲン写真に 「ブルジョワ的、自由主義的」音楽を 刻み込み、地下流通させていました。 見つかれば収容所送り、それも覚悟で。 この、ほとんど知られていない 「ボーン・レコード」を、 あの都築響一さんが持っていた! 音への渇望、アートと自由の関係性。 興味深い話、たくさんうかがいました。 担当は「ほぼ日」奥野です。 ── つまり、淡谷のり子さんの歌って、 禁制だったんですか。旧ソ連では。 都築 淡谷さんというより、 歌っていた曲の種類によるんです。 社会主義体制では 「プロレタリアート的な音楽」と 「ブルジョア的な音楽」とに、 分類されるわけです。 ── オッケーな音楽と、ダメな音楽と。 ロックはダメな

    第2回 生命をかけて聴く音楽。 | 幻の肋骨レコード。都築響一さんが持っていた! | ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/05/04
  • 第1回 淡谷のり子さん、だった。 | 幻の肋骨レコード。都築響一さんが持っていた! | ほぼ日刊イトイ新聞

    冷戦時代、旧ソビエト連邦では、 ジャズやロックンロールなどの 「ブルジョワ的、自由主義的」音楽は、 厳しい取り締まりの対象でした。 そこで、 ジャズやロックを聴きたいソ連の人は、 使い古しのレントゲン写真に 「ブルジョワ的、自由主義的」音楽を 刻み込み、地下流通させていました。 見つかれば収容所送り、それも覚悟で。 この、ほとんど知られていない 「ボーン・レコード」を、 あの都築響一さんが持っていた! 音への渇望、アートと自由の関係性。 興味深い話、たくさんうかがいました。 担当は「ほぼ日」奥野です。 ── あ、やっぱり、 知ってる人の数は少ないんですか。 都築 めったにいないんじゃないかなあ。 ── でも、都築さんは、 その存在を知っていたのみならず、 所有までされていて。 都築 はい。 ── さすがだ‥‥と思いました。 旧ソビエト連邦の社会主義体制下、 厳しい取り締まりの対象だった 「

    第1回 淡谷のり子さん、だった。 | 幻の肋骨レコード。都築響一さんが持っていた! | ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/05/04
  • さんまさんに「おちつけ」を渡しに行く3分50秒。

    ことし2月に発売して大好評をいただいた ほぼ日の「おちつけ」グッズは、 明石家さんまさんの番組がきっかけで つくることになった商品です。 糸井重里の構想からはなんと約10年! ついにできました、ということで 「おちつけ」のことばと感謝を伝えに、 さんまさんのもとへ会いに行ってきました。 お会いできた時間はわずか3分50秒、 その間に糸井と交わした会話を記録しました。 最後に、新商品のお知らせもありますよ。 担当は「おちつけ」チームのひらのです。 ほぼ日の「おちつけ」グッズは、 もともと糸井重里が『さんまのまんま』の スタジオに飾られていた掛け軸から発想を得て つくられた商品でした。 さんまさんへのメッセージである一方で、 「おちつけ」ということばをキャラクターにして いっしょに暮らせないかと考えたのです。 そして、ことし2月に発売した ほぼ日の「おちつけ」グッズ(掛け軸&ピンバッジ)は、

    さんまさんに「おちつけ」を渡しに行く3分50秒。
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    toronei 2019/04/16
    なんかどんどん、ほいけんたに似てきたよな、さんまさん。
  • アイデアで解決した紙おむつ開発の話。 | 濱口秀司 | ほぼ日刊イトイ新聞

    世界中を飛び回り、さまざまな商品の 企画開発に携わっている ビジネスデザイナーの濱口秀司さんが、 最近、「紙おむつの開発」という 新しいお仕事に取り組まれたそうです。 前回の対談以来、 濱口さんと交流を深めてきた糸井も、 前々からその内容に興味を持っていました。 新しいおむつは「ネピアWhito(ホワイト)」と言います。 開発に携わった王子ネピアの上杉さんにも 同席いただき、糸井と三人で話しました。 開発秘話、日アメリカ仕事の違いなど、 盛りだくさんの全5回です。 >濱口秀司さんのプロフィール ビジネスデザイナー。 京都大学卒業後、松下電工(現パナソニック)に入社。 研究開発に従事したのち全社戦略投資案件の意思決定分析担当となる。 1993年、企業内イントラネットを考案・構築。 98年から米国のデザインコンサルティング会社、Zibaに参画。 99年、USBフラッシュメモリのコンセプト

    アイデアで解決した紙おむつ開発の話。 | 濱口秀司 | ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/04/13
  • 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞

    ぼくはですね、望んだことは全部実現したけれども、 そもそもくだらないことしか考えていないんですよ。 同級生に映画のプログラム書いてるやつがいて、 そいつは映画館に「やあ」と言って (無料で)入るんだよね。 いや、羨ましいな、俺もああなりたいなと思っていたら、 『映画芸術』という雑誌の仕事が突然来て、 「何でもいいから書いてくれ」というんです。 「じゃ、映画観て、その感想を書く」ということになって、 それから『映画芸術』のおかげで映画館には 入れるようになったんです。 おなじように「やあ」って。 けれど、一つもいいことはなかった。 原稿料は安いしね、それでほんとうにやり始めるとね、 全然観たくない映画も観なくちゃいけないから。

    「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/01/15
  • 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞

    そう、ぼくの絵を読んだ人は みんなお母さんになってるんだね。 そのお母さんがですね、屋に行くと、 ぼくが最初に描いた絵の 『あんぱんまん』を見つけて買うんです。 ぼく、最初のがイヤでね、 絶版にしようって言うんだけど、 これが売れるんですよ。 「あ、私の子どもの時に読んだがここにある!」 って。

    「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/01/15
  • 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞

    ボーッと見えることは見えるんでね、 このくらい大きく描いて、それを縮小して、 渡してるんです。 今日の仕事も、石ノ森章太郎と手塚治虫の 追悼のために、両方の絵を描く、 という依頼だったんですけど、 デカく描いて、縮小させました。 ぼくは理事長とか、いろんな選考委員、 全部降りたんですよ。 そしてもう引退するって言ったときに、 東日大震災が起きた。 その時に引退なんて甘いことは言ってられない。 あの人たちに比べれば、 自分のほうがよほどまだ元気だからっていうことで、 引退は撤回したんです。 撤回して、向こうへ、うちの声優たちを慰問にやったり、 向こうでコンサートをやったり、現物を寄付したり、 いろいろしてたんです。 だから、まだ、引退はしてないんですけどね、 現実はもうダメなの。

    「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/01/15
  • 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞

    ぼくは手塚治虫さんには、 すごく感謝してるんですよ。 『千夜一夜物語』がヒットして、 手塚さんは「やなせさんのおかげです」と言ってね、 英国屋で背広作ってくれたんだ。 そして料亭に招待してくれたんです。 そうしてですね、「やなせさんの好きな映画、 うちのスタッフを使って何でも作ってください。 お金は全部ぼくが出します」というんでね、 『やさしいライオン』というのを作ったんです。 そうしたら、何と大藤信郎賞をもらっちゃった。 そうしてアニメーションの世界に入ってしまうんです。 ところが、自分でやってみると、大変なんだよ。 いやぁ、アニメーションと普通の漫画と両方描くのは とても大変。これはできない。 どっちかを捨てなくちゃいけない。 結局ぼくはアニメーションを捨てたんですけど、 手塚さんは両方やってたんですね。 あれは無理ですよ。

    「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/01/15
  • 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞

    水木しげるも、あいつ、寝てばっかりいるから 生き延びてしまったんだよ。 水木しげるというのはすごいですよ。 小学校の時から寝てばかりで、学校へ毎日遅刻するんで、 成績もすごく悪かったんだけれど、 絵の成績だけよかったっていう人なんです。 ぼくは小学校の時から遅刻するということはなかったな。 水木しげるは大人になっても寝てばかりで、 「俺は寝てたからこうやって長く生きられた。 あとのやつは、石ノ森にしろ、手塚にしろ、 昨日は徹夜3日目だとか何とか威張ってたから、 早く死んだんだ」って言ってるんだよね。

    「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2019/01/15
  • 「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞

    思い出すことがあったら、 ぜひお聞きしたいことがあるんです。 震災の時、何をしていらっしゃいましたか。 あの時はね、俺はどこにいたっけ? ああ、家にいたんだな。 寝てたんだ。 ぼくはね、地震に対してすごく強い人なんですよ。 全然驚かないの。 南海大地震にも遭ってるしね、兵隊の時は ドカンドカンと地響きがするなかにいた。 あの地震のときも、そのまま寝てたんですよ。 起きたら被害の大きさにびっくりしちゃって、 引退しようと思っていたのを、撤回した。 そうして、東北の慰問を始めたんです。 あの時にですね、じつはですね、 生前葬というのを計画してたんですよ。

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    toronei 2019/01/15
  • ほぼ日 - 有吉が、窓から風を 入れましょう。

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    toronei 2018/12/03
    この時期有吉さんは、他の場所でも結構M-1チャンピオンとかへのコンプレックス率直に語ってたよね。すげえ格好いいなあと思ったわ。
  • 前川清さん、矢野顕子さんに会う。

    前川 どうも、今日はよろしくお願いいたします。 矢野 あ、おにぎりがありますね。 すごい、駆けつけおにぎりだ。 糸井 どうぞどうぞ、べてください。 前川 いいんですか? ああ、たくあん、おいしいですねぇ。 糸井 べながらですけど、 ちょっとずつ話をしましょう。 おふたりは、今日会うのがはじめてですか? 矢野 えっと、たぶん2度めです。 前川 1982年の「Kiyoshi」というアルバムで 矢野さんに歌を作ってもらったので、 それ以来ですね。 糸井 今回、ふたたび矢野顕子さんが歌を作って、 しかもデュエットしたんですよね。 矢野 作詞は糸井重里ですよ。 「イトイヤノ(作詞:糸井重里 作曲:矢野顕子)」 作品です。 前川 いやぁ、なんというか、 おもしろい歌でしたねぇ。 矢野 NHKの「ラジオ深夜便」に 使っていただけるというお話が決まっていたので、 はなから詞は糸井にお願いしようとしてま

    前川清さん、矢野顕子さんに会う。
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    toronei 2018/11/22
  • 前川清さん、矢野顕子さんに会う。

    糸井 けれども前川さん、 矢野顕子の「ブルーノート」は、 普通のステージじゃないですよ。 矢野 あそこには天変地異のような状況が(笑)。 前川 じつは、ほかの人のショーを見るのは、 ぼくはほとんどはじめてだったんですが、 やっぱり見るもんですねぇ。 いろいろ勉強になりました。 矢野さんはお客さんに 「手拍子をしなくていいですよ」と ステージでおっしゃることがありましてね。 矢野 はい、そうですね。 前川 手拍子ってね、 最初は100人がやっていても、 途中でそのうちの20人はやめてしまいます。 最後までは、やりませんね。 糸井 うん、そうね。 前川 「そうか、これいいな、よしぼくも使おう」って、 矢野さんの考えを逆にして、 コンサートでやらせていただくことにしました。 ぼくは、逆に、お客さんに 「手拍子をしてください」と言ったんです。 それは、オールディーズかなにかの たのしい歌のときでし

    前川清さん、矢野顕子さんに会う。
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    toronei 2018/11/22
  • 前川清さん、矢野顕子さんに会う。 - ほぼ日刊イトイ新聞

    前川 男女デュエットは確かに難しいですね。 ぼくなんかのキーだと、低い声が出ません。 矢野 この歌では、前川さんが いちばんすてきに聞こえるところを考えて 合わせました。 そして、番を迎えたんですけれどもね、 「じゃあちょっと歌ってみましょうか?」 なんて言って‥‥。 糸井 うん、うん。 矢野 スタジオには、ピアノ担当の私、 ほかにベースとドラムがいました。 前川さんが歌いはじめたら、 3人が顔を見合わせて 「ああ‥‥」と声が出ちゃった。 糸井 前川清というボーカリストに対して? 矢野 そう。 そのときからパンッと、 自分たちはその伴奏を作る役目になりました。 「歌のための私たち」に、 すぐになったんです。 糸井 そりゃずいぶんカッコいいね。 矢野 声のツヤ、存在感、 プロの歌い手が持つ重み、 声の情報量の多さが、 とにかくすごいわけですよ。 糸井 声が持ってるんだ。 矢野 うん。それが

    前川清さん、矢野顕子さんに会う。 - ほぼ日刊イトイ新聞
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    toronei 2018/11/22