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  • 徳川家康は大坂夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られた?南宗寺に残る伝承の謎

    NHK2016年の大河ドラマ『真田丸』も、いよいよ佳境を迎え、真田幸村と徳川家康の一騎打ちも迫ってきた。そんなクライマックスの舞台に用意されている大阪夏の陣には、ちょっと信じがたいミステリアスな伝承が存在することをご存じだろうか。それは、「徳川家康は、大坂夏の陣で後藤又兵衛の槍を受けて戦死していた」という“もう一つの史実”である。 そんなことを言えば、「家康が死んだのは夏の陣の翌年で、駿府城でしたてんぷらにあたったからじゃ?」「後藤又兵衛なら、道明寺の戦いで片倉重綱の鉄砲部隊にやられているはずだろ?」という反論の矢が飛んできそうだが、大阪・堺市にある南宗寺には、“家康は夏の陣で死んだ”ことを思わせる数々の遺物が存在するのだ。果たして、家康は当に夏の陣で命果てたのか?歴史の深い謎を検証する。 ◆大阪夏の陣 大阪夏の陣は、慶長20年(1615年)5月6日と7日の2日間にわたり、徳川幕府軍と

    徳川家康は大坂夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られた?南宗寺に残る伝承の謎
    toronei
    toronei 2016/11/21
  • 聚楽第の落書き事件~尾藤道休など60名以上が処刑された?

    聚楽第の落書き事件とは 戦国時代の1589年、何者かが夜陰に乗じて、聚楽第南外門にの白壁に落書きしたのが発見された事件。(落首事件) 落書きの内容は関白(豊臣秀吉)の政治を批判するものであったという。 一説には下記のような文章で落書きされていたと言う。 大仏の くどくもあれや やりかたな  くぎかすがいは 子たからめぐむ」 との記述であるが、上記文章は後世の創作である可能性があり、実際にどのような落書きがされたのかは記録が無い。 いずれにせよ、当時、豊臣秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩令を出して批判されており、このようにして京都東山に大仏殿を建築しようとしていた事や、側室を多数持ちながら長年、子供に恵まれて来なかったのに、突然、茶々(淀殿)が懐妊した事から、あざ笑うかのような内容であったとされる。 誹謗中傷が落書きされたのに対して、豊臣秀吉はまず警備を担当していた番人に怒りをぶつけた

    聚楽第の落書き事件~尾藤道休など60名以上が処刑された?
    toronei
    toronei 2016/05/22
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