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  • 第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

    前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。 この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日軍の糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日軍は和平交渉に入るのだが、日側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終えるために偽りの降伏文書を作成したことが後に発覚し、秀吉が激怒する。秀吉は直ちに第二次朝鮮出兵を命じ、第二次朝鮮出兵と言われる「慶長の役」が始まるのだ。 第一回目の「文禄の役」は明の征伐が目的であったが、「慶長の役」は朝鮮征伐が目的であった。諸将に発せられた慶長2年(1597)2月21日の朱印状(『立花家文書』等)には「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」「これを達成した

    第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
    toronei
    toronei 2016/03/13
    現在の韓国は李氏朝鮮の治世を否定しているんだから、李氏朝鮮に当時の半島にいる人達の多くが翻したというのは、別に都合の悪い話ではないはずなんだけどね。
  • 多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

    前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。 秀吉の朝鮮出兵については日のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm 朝鮮出兵については、山川の日史をはじめ多くの教科書には「朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦した」と簡単に書いているのだが、それならばなぜ簡単に日軍が平壌まで進む事が出来たのか。 まず、日軍が上陸した釜山(プサン)では4月13日の早朝に攻撃開始後数時間で日軍は釜山城に攻め入って勝利している。 日軍が短時間で

    多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
    toronei
    toronei 2016/03/13
    秀吉の朝鮮出兵は現地の奴隷階級に歓迎されて、最初は協力してもらえてたのに、現地の慰撫に失敗してダメになったという認識なんだけど。
  • 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

    秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。 最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。 「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日人の海外発展を援助したので、日船の東南アジア方面への進出が盛んになった。秀吉はさらに明(中国)の征服をくわだて、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導をもとめた。しかし朝鮮がこれに応じなかったので、秀吉は2度にわたって出兵をおこない、明の援軍や、朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3年)年、秀吉の死によって全軍は撤兵したが、朝鮮出兵とその失敗は、明・朝鮮両国の反日感情をつのらせたほか、国

    秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
    toronei
    toronei 2016/03/13
    秀吉の朝鮮の役での無計画っぷりは動機ではなく、通り道としか思ってなかったから、まともな戦争計画建てていなかったことのほうだよなあ。きちんと慰撫しながらやってないとかね。
  • 江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

    このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。 この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。 梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。 標準的な教科書である『もういちど読む 山川日史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。 「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言

    江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
    toronei
    toronei 2015/07/01
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