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学_論に関するtot-mainのブックマーク (48)

  • なぜSFが根付いたか

    アメリカ在住のくみちゅさんから難しい質問が届きました。なぜ、日にはSFが根付いたか、というものですが、まずは質問の全文を―― 先月あたりに、ヒューゴー賞が発表されましたね(さいきんはどうもSFを読まなくなったので、あわてて発表後にを読んでいたわけですが)。ノンフィクション部門受賞のを読んでいて疑問に思った、日とSFの関係です(またもや)。  正直、アカデミックな価値はあまりないのですが、このの作者の言い分は、SFがアメリカ的なジャンルで、アメリカにしか根付かなかった、ということなんですね。まあ、イギリスは別として、ヨーロッパでもアジアでも、とくに第三世界では、SFは受け入れられていないジャンルです。ゴシック文学と関連しているとはいえ、50年代のハードコアSFや80年代のサイバーパンクは、やはりアメリカで起こったものでしたね。 日のSFも、いわば19世紀末からのモダニズムに似て、

  • Hagiwara Seminar

    授業教材 「政治學基礎I」 ラビリンスワールドの政治学 「政治哲學I」 「政治哲學II」 「政治思想基礎」 授業関係のアナウンス 2012年度3/4年生救済レポート 2003年学生による「政治學基礎I」授業評価 2002年春學期「政治學基礎I」試験講評 学生による「政治哲學I」授業評価 学生による「政治哲學II」授業評価 担当者について そのオモテ(主要著作)など そのウラ(枝葉著作)など 付録:大學院受験のための独逸語〜政治學篇 おまけ:卒論の書き方?〜ひねくれ者篇 研究會について 萩原研究會とは何ぞや 講義・抗議・交誼・巧技 學生の疑問に萩原が答えようやないか 04/1/21更新 早稲田塾のGood Professorコーナーで取り上げられました

  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 書は、漫画表現論、あるいは漫画表現史の方法論であり、なおかつ、それ自体が一種の漫画表現史になっている(後述)。 内容の乱暴な要約――漫画のモダン=手塚にしばられるな 書の内容を乱暴にまとめると次のようになる。 90年代後半に「漫画がつまらなくなった」という言説が漫画評論家などのあいだでふえはじめる。しかし、それはそう言う評論家たちが、漫画に「人間」や「内面」や「物語」といった「モダン」なもの、もっといえば近代的なリアリズムを基準にみようとするからで、そうしたモダンなものがない漫画、ポストモダンな漫画が読めなくなったせいだ。 もともと漫画は、独特の存在感のある線の束で表現されるもの(キャラ)をもち、それが近代的な「内面」や「物語」をかかえこんであたかも実在の身心をもつかのような人間としてうけとられるようになった(キャラクター)。しかし80年代後半以降、「内

  • 「あんた、だ〜れ?」……言語と認識に関する覚え書き

    「よう、ミューラー。だいぶ変わったな。髪は白くなったし、ヒゲも生えてる。それに太ってしまったな」 「でも、私はミュラーじゃないです」 「名前も変わったのか」 ---世界のどこかのジョーク 「人は多くの人々を知っているが、彼らがどうなったかは知らない---なんというで読んだか忘れましたが、ジャン・コクトーはそんなことを言っています。当たり前のことを言っただけでしょうが、それをわざわざ言うのは当たり前ではありません。私は久しく会わなかった人に会うたびに、この言葉を思い出します。センチメンタルな奴だと思いませんか」 ---結城昌治『ゴメスの名はゴメス』

  • 九尾のネコ鞭 - 体育会系ジョークとオタクジョーク、その間にある深い溝

    家電量販店でバイトをしていたことがある。そのときの直属の上司がS氏だった。彼は典型的な体育会系、営業タイプであった。 彼と初めて会ったときに、S氏はこんなジョークを言った。 S氏「ねぇねぇ、俺にさ、『血液型は何型ですか?』って聞いてみて?」 私「え…。あ、はい。血液型は何型なんですか?」 S氏「俺?俺はクワガタっ!!」 私は唖然とした。これで笑えというのか。いまどき小学生でも言わないギャグだろう。しかし無表情なのは相手に失礼だ。私はなんとか顔の表情筋を「笑い」の状態にして、その場をやり過ごした。 しばらくして、彼は女子高生を見てこんなことを言った。 S氏「おいおいおい!あの女子高生見てみろよっ!!」 私「え…、あ、はぁ。」 S氏「あの生足!!涎でてくるなっ!あーセックスしてぇ!」 私はずいぶんこの人はゲスな人だと思った。軽い嫌悪が顔に浮かびそうだったが、なんとか押し留め、軽く、はははと笑っ

    九尾のネコ鞭 - 体育会系ジョークとオタクジョーク、その間にある深い溝
  • 女教師ナオ子の、震える夜。 - 女教師ブログ

    教育, 社会 時計が23時を少しまわって、僕はブログを書くためPCに向かった。今回の記事のタイトルは、「フランクフルト学派の現代ポストコロニアル文学との関係における、舞の海と荻原次晴のちっとも上手くならないスポーツキャスター業の一考察」――そう、ブログ界いや思想界でのエポックメイキングでパラダイムシフティングな、金字塔的小論文になるはずだ。ワードを起動し、僕はキーボードに両手を置いた。ちょうどその時、電話が鳴った。姉のナオ子からだった。ナオ子は、開口一番、今夜のTBSを見たか?と聞いてきた。あ、あの討論番組「今、子供たちが危ない」のことかとすぐわかった。ナオ子は長野で教員をやっているからだ。僕が、見たというと、ナオ子は、マジでふざけてんじゃねぇよ!!!とまず最初に叫び、次のようにまくし立てた。 結局、保守派もリベラルも「人のせい」で反吐が出る。子どもの問題は全部他人のせい、自称・教育家たち

    tot-main
    tot-main 2006/02/17
    TVの内容は透視可能。
  • あんよ流・考察の書き方

    あんよ流・考察の書き方 はじめに この文章は、くるぶしあんよが考察を書くときの基的な態度や具体的な叙述方法などについて、一つの読み物としてまとめたものです。 ぼくはすでに、アニメ版『シスター・プリンセス』考察や『涼宮ハルヒの憂』考察、『魔法先生ネギま!』考察など、少なからぬ考察文を公開してきました。それらのテキストはウェブ上の各種ファンダムで一定度の評価を得ており、その書き方についての質問も以前いただいています。それゆえ、ぼくが考察対象作品をどのような観点からとらえ、どのような切り口で解釈しようとしがちなのかについて、一度おおまかなところを文章化しておくことは、関心をお持ちの方にとって何かのお役に立つかもしれないと考えました。なお、この文章の原型は、2005年2月25日以下の日記にあります。このテーマについて質問して下さったせいるさんによる「SSの書き方&考察の書き方」まとめも、ぜひご

  • 脱亜論

    世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る處、草も気も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異なるに非ずと雖ども、其擧動の古に遅鈍にして今に活發なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今当用に國するものゝ為に謀るに、此文明の東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覺悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事實に不可ならんを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦樂を與にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西國長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に當り此流行病の害を惡て此れを防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩斷じて其術なきを證す。有害一遍の流行病にても尚且其勢には激す可らず。況や利害相伴ふて常に利益多き文明に於てをや。當に之を防がざるのみなら