“松下幸之助氏が京都駅からある料亭へ打ち合わせに向かっているときのこと。 隣に乗っている、最近松下電器にはいったばかりの秘書にこう言った。 「あのな、ここらへんは実はわしの土地なんや」 さすが大企業の社長、と秘書が驚いていると幸之助氏はさらに続ける。 「今からゆく料亭も、実はわしのもんなんや」 はあ、料亭も!と秘書が驚いていると突然幸之助が笑い出した。 「面白いやろ、君!そう考えたらなんか気が大きくならんか?」 これは冗談だったわけだが、幸之助氏は続けて秘書にこう諭す。 もしここらへんの土地が自分のものだったら、前を走る車も邪魔には思わないだろう。 自分の料亭の酒や料理は大事にしよう、と思うだろう。 自分の土地だからタバコを捨てたりしないだろう。 そして突き詰めて考えると「みんなのものは自分のもの、自分のものはみんなのもの」という哲学にいきつく。 私心一色になりがちな企業経営もそう考えると
生きている意味がわからない。 ミクロ的にはわからないこともない。自分の幸せのため自分を愛してくれている人の為子供のため社会の為種の保存の為 でもそれがなんだと言うんだろう?自分はいずれ死んでしまうし、自分を愛してくれている人も死んでしまうし、子供も死んでしまうし、人類だって滅びてしまう。そもそも、この宇宙だっていずれは停止する運命にある。要するに自分が何をやったとしても、もしくは何もやらなかったとしてもはっきりいって無意味だし無価値だ。 圧倒的な無意味の中でどうやって生きていけばいいんだ? どうすれば、自分の人生が価値あるものだと思えるんだ? 僕はつねに正しくあろうとしてきた。その正しさの根拠をどこかに求めようとしてきた。 人間は社会的動物である。では、社会に正しさの根拠を求めればいいのか?いや、社会的動物なのであれば生物として存在し続けること = 種の保存に則って生きていけばいいのか?い
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