タグ

2010年12月31日のブックマーク (5件)

  • 花窟神社 - Wikipedia

    花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊(伊弉冊尊[1]、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る[1]。 概要[編集] 七里御浜から見た神体の巨岩 『日書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである[2]。 神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる[3]高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの[4]大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ[3]、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている[4]。一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.3キロメートル先

    花窟神社 - Wikipedia
    tsmsogn
    tsmsogn 2010/12/31
    最古の神社
  • イザナミ - Wikipedia

    伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日神話の女神で神世七代の7代目(妹)。伊邪那岐神(伊邪那岐命、伊耶那岐命・いざなぎ)の。別名 黄泉津大神、道敷大神。神話においては皇室の先祖とされている。 天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。イザナギとは夫婦となり[1]、オノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。 火の神軻遇突智(カグツチ)(迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥し、亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチはイザナギに殺された。 亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町[2])に、『日

    イザナミ - Wikipedia
  • イザナギ - Wikipedia

    イザナギ[1]またはイザナキ[2](伊邪那岐/伊弉諾/伊耶那岐)は、日神話に登場する男神[3]。『古事記』では伊邪那岐神、伊邪那岐命、『日書紀』では、伊弉諾神と表記される。イザナミ(伊邪那美、伊弉冉、伊耶那美、伊弉弥)の夫。 アマテラスやスサノオ、ツクヨミ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代前の先祖とされている。 概要[編集] 天地開闢において神世七代の最後に伊邪那美命とともに生まれた。そして高天原の神々に命ぜられ、海に漂っていた脂のような国土を固めるべく、天浮橋から天沼矛で海をかき回し、出来上がった淤能碁呂島にて伊邪那美命と結婚した。国産み・神産みにおいて伊邪那美命の間に日国土を形づくる多数の子を儲ける[3]。その中には淡路島をはじめ大八洲(州・四国・九州等)の島々、石・木・海(大綿津見神)・水・風・山(大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。 伊邪那美命が、火の神であ

    イザナギ - Wikipedia
  • 千木・鰹木 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "千木・鰹木" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 富士山宮浅間大社(静岡県富士宮市)殿 屋根の上にある水平方向の棒が鰹木、両端で交叉しているのが千木。 千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、神社建築に見られる、建造物の屋根に設けられた部材である。 概要[編集] 千木は屋根の両端で交叉させた部材であり、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何か平行して並べた部材である。どちらも古墳時代には皇族や豪族の邸宅にも用いられたが、今では神社の屋根にのみ特徴的にみられる(両国国技館にある土俵の吊屋根にも似たようなものがある

    千木・鰹木 - Wikipedia
    tsmsogn
    tsmsogn 2010/12/31
    熊野那智大社もこれがある
  • 熊野那智大社 - Wikipedia

    二の鳥居 境内風景 熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山にある神社。熊野宮大社・熊野速玉大社と共に、熊野三山を構成する。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと名乗っていた。また熊野十二所権現や十三所権現、那智山権現ともいう。旧社格は官幣中社で、現在は神社庁の別表神社。 熊野那智大社の社殿および境内地は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の構成資産の一部[1]。 歴史[編集] 熊野三山の成立まで[編集] 『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは

    熊野那智大社 - Wikipedia