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  • 畠山七人衆 - Wikipedia

    畠山七人衆(はたけやましちにんしゅう)は、戦国時代において能登畠山氏(七尾畠山氏)を事実上支配した政治組織及び、それを務めた7人の畠山家の重臣を指す。筆頭の温井総貞と守護代の遊佐続光によって主導された。七人衆体制の崩壊後も、そのメンバーである遊佐続光と長続連らによって能登畠山家の運営がなされた。しかし、遊佐続光の裏切りにより、七尾城の戦いで長続連は暗殺された。 概要[編集] 前史と畠山七人衆の成立[編集] 能登畠山家は7代目・畠山義総の頃に全盛期を迎えるが、義総の死後、以下に挙げる7名の重臣(年寄衆)の合議制によって政策運営がされるようになる。 また、次の8代目・畠山義続は七人衆の傀儡であり、畠山家の政策は、筆頭の温井総貞を始めとする七人衆に委ねられていた。 第1次畠山七人衆(1552年 - 1553年) 伊丹総堅 平総知 長続連 温井総貞 三宅総広 遊佐宗円 遊佐続光 第2次畠山七人衆(

  • 畠山氏 - Wikipedia

    坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。 その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女[注釈 1]と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その子を義絶した上での継承であった[注釈 2]。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなっ

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  • 土屋昌続 - Wikipedia

    土屋昌続戦死之地(愛知県新城市) 土屋 昌続(つちや まさつぐ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。 土屋昌次の名により『甲斐国志』などで知られているが、諱については文書上では「𡈽屋昌続」であることが史料的に確認されている。 「片手千人切り」で知られる土屋昌恒の実兄にあたる。 金丸筑前守(虎義)の次男「平八郎」として生まれる。金丸氏は清和源氏流武田氏一門で、甲斐守護武田信重の子、金丸光重を祖とする。筑前守は譜代家老で、板垣信方と並び武田晴信の傅役であったという。 平八郎の兄である金丸平三郎は武田信玄の奥近習横目役を務めた。『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)に武田信廉の被官である落合彦助が奉行に暴言を吐いたためそれを報告し、それが元で落合の母は牢に入れられ、そのまま獄死した。それが落合の恨みを買い、落合に殺害されたという。信玄は大いに

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  • 武田信廉 - Wikipedia

    逍遥院にある逍遙軒信綱の墓所 武田 信廉(たけだ のぶかど)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の六男。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる[注釈 1]。 天文10年(1541年)6月、兄・晴信(信玄)は父・信虎を駿河国の今川義元の元へ追放して家督を相続し当主となる。晴信は信濃侵攻を格化させ、翌天文11年(1542年)7月には諏訪氏を攻めこれを滅ぼす。 信廉の初見史料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、

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  • 長島町 (三重県) - Wikipedia

    木曽三川分流工事以前の木曽川河口部の状況。黒字は輪中の名称(両国輪中については主要な村名)。 長島町(ながしまちょう)は、三重県の北勢地域、木曽三川河口部の濃尾平野の南西部にかつて存在していた町。2004年12月6日に桑名市・多度町と合併し新しい桑名市となり廃止した。 三重県南部に北牟婁郡紀伊長島町(現:紀北町)が存在していたため、伊勢長島[注釈 1]と称されることもある。

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  • 輪中 - Wikipedia

    明治時代初期の濃尾平野の輪中地帯の様子(黄が美濃国(岐阜県)、赤が尾張国(愛知県)、緑が伊勢国(三重県)) 輪中(わじゅう)とは、一般的には堤防で囲まれた構造、あるいはその集落を意味する[1]。濃尾平野の木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)とその支流域にあたる岐阜県・三重県・愛知県の県境付近に発展しており[2][1]、曲輪または郭(くるわ)・輪の内(わのうち)など輪中を意味する用語は多数存在する[3][4]。 来『輪中』や『輪の内』は「同じ目的の仲間」の意味で用いられた言葉であり[5][6]、水害から集落や耕地を守るために地域住民が共同で水防を整える過程で自然発生的に使用されるようになったと考えられるため、実際のところ「輪中」の定義には諸説があり定まっていないところが多い[1]。地理学者の安藤万寿男、歴史地理学者の伊藤安男らは輪中についての地理学的なグループ研究を推進し、1975年に出版さ

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  • 長島輪中 - Wikipedia

    伊勢湾から見た木曽三川河口部。2019年8月撮影。 長島輪中(ながしまわじゅう)は、三重県北部の木曽川下流部にあった輪中[1]。 明治時代初期の輪中地帯の様子(黒字は主要な輪中名、水色線・青字は主要な河川、着色は黄が美濃国(岐阜県)・赤が尾張国(愛知県)・緑が伊勢国(三重県)) 現在の桑名市長島町の北部域が相当する。木曽三川の三角州地帯に位置し、木曽三川は長島輪中の東西2筋に分かれて伊勢湾へと注いでいた[2]。長島輪中の北側の地域は自然堤防を開発した地域で、西外面・又木・殿名以南の地域は河口部の砂州を干拓して造成された地域である[3]。長島輪中の南西側には同様に砂州を干拓して開発された輪中が桑名市から三重県桑名郡木曽岬町・愛知県弥富市にかけて広がっており、以下項においては一帯の干拓輪中全体を扱うこととする。 広義の「長島輪中」は、木曽三川分流工事で陸続きとなった葭ケ須輪中・横満蔵輪中まで

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  • 御囲堤 - Wikipedia

    御囲堤の原型は文禄3年(1593年)豊臣秀吉によって築かれたと言われる。尾張国は天正14年(1590年)6月の木曽川の大洪水によって大きな被害を受けていた(なお、この洪水で木曽川の流は大きく流路を変え、それまでの葉栗郡、中島郡、海西郡は木曽川によって2分され、木曽川の右岸となった地域は美濃国に編入された)。当時、尾張は豊臣秀次の所領であったが、秀吉は文禄2年(1592年)11月末から12月初旬まで洪水で荒廃した尾張に滞在し、自ら振興策の遂行を指導している。これにより翌文禄3年正月には築堤が開始された。しかし、堤を築かせた理由は洪水の対策よりは、幾筋にも分かれていた木曽川の流路を固定し、水流や水量を安定させ、渇水期でも川を使って大坂城や城下町の建設に使用する木曽檜等の木材を運ぶ事ができるようにする目的にあったとも言われる。 関ヶ原の戦い後、尾張国清洲城に徳川家康の九男、徳川義直(尾張藩初代

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  • 木曽三川分流工事 - Wikipedia

    木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川の下流域では、古くから三川が合流・分岐を繰り返して網目のように複雑に流れており、大雨が降ると堤防が決壊して大惨事を起こしては川の流れが変わるという状態が続いていた[9][10][11]。水害の被害に苦しむ一方で網目状の川が地域の水運において重要な役割を担っており、江戸時代には佐屋宿から佐屋川・木曽川・鰻江川を通じて揖斐川で桑名宿へと至る佐屋街道の「三里の渡し」も存在していた[12]。 8世紀ごろから尾張国と美濃国の間で洪水の恐れがあるこの地域を押し付け合うような様相となっており、866年(貞観8年)には「広野川事件」も発生していた[13]。おおよそ現在の河道に落ち着いたのは1586年(天正14年)の大洪水の後で[14]、豊臣秀吉が1592年(文禄元年)から3年間で国境を明確にして「文禄の治水」として堤防を築いた[15]。 1609年(慶長14年)には木曽川の

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  • 願証寺 - Wikipedia

    三重県桑名市長島町又木の願證寺山門 北緯35度5分29.65秒 東経136度42分18.25秒 / 北緯35.0915694度 東経136.7050694度 三重県桑名市長島町又木の願證寺境内にある長島一向一揆の殉教之碑。1975年(昭和50年)に一向一揆400年追悼法要が、同寺で行われた[1]。 願証寺(がんしょうじ)は伊勢国桑名郡長島にあった浄土真宗の寺院。願證寺とも表記される。 願寺8世蓮如の6男蓮淳により、少なくとも明応10年(1492年)までに、香取庄中郷杉江の地に創建された[2]。あるいは、法泉寺(現・桑名市多度町香取)を開いた信慶の次男信祐により、文永元年(1264年)に開山され、願証寺の号は願寺3世覚如より与えられたともいわれる[3]。なお、当初の願証寺主は法泉寺主が兼帯しており[4]、蓮淳は空誓(法泉寺7世)の娘を室とする願証寺の堯恵から寺を譲られたという伝承があ

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  • 山科本願寺 - Wikipedia

    山科願寺(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。南側には興正寺も建てられていた[1]。 周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。 現在、跡地には浄土真宗願寺派と真宗大谷派の山科別院(西別院と東別院とある)が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。 「山科の御坊にて児達女房衆正信偈和讃習練の図」。蓮如が勤行として読誦するよう制定した正信偈和讃を、山科願寺で練習する男女 文明10年(1478年)から造営され、約6年間で建設されたと言われている。山科盆地の中央より西側にあり、四ノ宮川と山科川(旧音羽川)の合流地点で、

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  • 一向一揆 - Wikipedia

    出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年10月) 浄土真宗願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆のことである。願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如が言う「当流の安心は弥陀如来の願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。 1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼしたことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。 反面、一向一揆

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  • 一向宗 - Wikipedia

    出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年8月) 一向宗(いっこうしゅう)とは、 鎌倉時代の浄土宗の僧・一向俊聖が創めた仏教宗派。 江戸幕府によって時宗に強制的に統合され、「時宗一向派」と改称させられた。 さらに江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とさせられた。以来、他者が浄土真宗、ことに願寺教団を指す呼称。 仏教史的な観念からすれば、来は1.のみが「一向宗」の正しい定義であるとも考えられるが、戦国時代の一向一揆の印象や、江戸幕府によって行われた強制統合(「一向宗」の使用禁止)や強制改名(「一向宗」の使用強要)に伴い、今日では3.のみを指すのが一般的である。この歴史的経緯についてはそれぞれの項を参照。 鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年

  • 本願寺の歴史 - Wikipedia

    願寺の歴史(ほんがんじのれきし)では、親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院である「願寺」の歴史を、願寺が東西に分立するまでの時期について述べる。 弘長2年(1262年[注釈 1] )11月28日(グレゴリオ暦換算 1263年1月16日[注釈 2])、親鸞は京都の押小路南、万里小路東(おしこうじみなみ、までのこうじひがし。現在の京都市中京区柳馬場通押小路下ル)の「善法院」において入滅する。享年90(満89歳)。 後に、覚如によって「宗祖」(「開祖」)に定められる。 翌29日午後8時に葬送。下野国高田の顕智、遠江国池田の専信なども上洛し参列。東山鳥辺野(とりべの)の南、「延仁寺」で荼毘にふす。 翌30日拾骨。鳥辺野の北「大谷」に墓所を築き納骨する。 「大谷廟堂」の詳細については、「大谷廟堂」を参照。 文永9年(1272年)、親鸞の弟子や東国(関東)の門徒の協力を得た覚信尼(親鸞の末娘)により、

  • 早雲寺殿廿一箇条 - Wikipedia

    早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)は、戦国時代に相模国の後北条氏が定めたとされる家訓[1][2]。「北条早雲廿一ケ条」ともいい、北条早雲が定めたと伝えられる。全21ヶ条から成るが、内容は分国法としての面もあり、神仏への崇拝、主君への奉公の仕方、文武の鍛錬法、礼儀作法、友人の選び方、大工修繕の方法、清貧など日常的な生活上の心得などを簡潔明瞭に示している[1][2]。『北条五代記』は「早雲寺殿。二十一ケ條と號し。侍一生涯身の行の敎を。しるしをかれたる文有。其內二十ケ條に。武道のさた一言なし。終の一ケ條に。文武弓馬の道は常なり。しるすに及ばず」と記す。江戸時代初期までには成立しているが、早雲が定めたかどうか疑わしいという見方もある[1]。 一、可信佛神事(神仏を信ずること) 二、朝早可起事(朝は早く起きること) 三、夕早可寝事(夜は早く寝ること) 四、手水事(万事慎み深くする

  • 有岡城の戦い - Wikipedia

    有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。伊丹城の戦いとも呼ばれている[注釈 1]。 天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉の軍に属していた荒木村重は戦線を離脱し、居城であった有岡城(伊丹城)に帰城、織田信長に対して謀反を起こした。 荒木村重錦絵図/伊丹市立博物館蔵 荒木村重の謀反に驚いた信長は、その糾明の使者として、明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣した。光秀の娘は村重の嫡男・荒木村次のとなっていたため、親戚の縁で選ばれたと考えられている。これを聞いた高槻城の高山右近も有岡城へ説得に向かい、村重が信長から受けた恩義や、信長に勝つのは不可能なこと、敗北した際には厳罰が下るであろうことを説いた。右近はまた、彼

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  • 佐々成政 - Wikipedia

    佐々成政の馬印 天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の軍団長とした。越前12郡のうち8郡は柴田勝家、府中近辺の2郡は成政、前田利家、不破光治の3人(府中三人衆)に与えられた。府中2郡はおよそ10万石だったとされ、その後、地域の政務を常に3人の連名で行っているところから、領地を分けず収入のみを分配した相給知行であった[10]。成政は小丸城を築いて居城とした。この頃の成政は、勝家・利家・光治と行動を伴にすることが多かったが、府中三人衆は勝家の与力とはいえ、半ば独立した、織田軍の遊撃部隊的存在でもあった。北陸と上方を往復することが多く、上杉氏と対峙しながらも北陸での戦いが落ち着くとしばしば畿内へ呼び出されて石山合戦 や播磨国平定、荒木村重征伐(有岡城の戦い)などにも従軍している。この時、府中三人衆は荒木一族の処刑を命ぜられ実行している。 天正5年(1577年

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  • コスメ・デ・トーレス - Wikipedia

    スペイン語のrr(巻き舌音)の表記の関係で、「コスメ・デ・トルレス」とも書く(キリシタン、対外交渉史関係の文献では慣用的にこの表記例が多い)。また一部文献では「コスモ・デ・トルレス」とも書く。 ※参照:スペイン語の日語表記#rr スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となり、故郷を離れてメキシコに渡った。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアのモルッカ諸島までやってきた。1546年、そこでトーレスは運命的な出会いをする。たまたま同地に来ていたザビエルとの出会いである。ザビエルに心酔したトーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会した。 ザビエルや日人ヤジロウと共に日への宣教を志したトーレスは1549年8月15日、ついに鹿児島に到着。ザビエルと同じように日人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらませた。一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることができたため、トーレスは

  • 正親町天皇 - Wikipedia

    正親町天皇(おおぎまちてんのう、1517年6月18日〈永正14年5月29日〉 - 1593年2月6日〈文禄2年1月5日〉)は、日の第106代天皇(在位:1557年11月17日〈弘治3年10月27日〉 - 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉)。諱は方仁(みちひと)。 後奈良天皇の第一皇子。母は参議万里小路賢房の女の藤原栄子(吉徳門院)。 永正14年(1517年)5月29日、後奈良天皇の第一皇子として生まれる。 弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も践祚後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名である毛利元就・隆元父子から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た[1][注釈 1]。 さらに、願寺法主・顕如も

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  • 岐阜城の戦い - Wikipedia

    東海道を進軍する東軍に対して岐阜13万石を領有していた織田秀信は、岐阜城を中心に数箇所に陣を張っていた。これは、東軍がどこで木曽川を渡るかが推測できなかったためといわれている。このため、兵力が分散してしまっていた。 これに対し池田輝政は、兵力を集中しての突破を試みる。1600年(慶長5年)8月22日明け方、池田輝政が率いる東軍諸隊は、尾張国葉栗郡河田(現・一宮市)から美濃国羽栗郡河田島(現・各務原市)付近に進軍。木曽川を渡河する。これに対して西軍の織田軍は鉄砲隊で応戦する(河田木曽川渡河の戦い)。木曽川の渡河に成功した東軍諸隊は、8月22日昼、美濃国羽栗郡米野村(現・笠松町)で西軍織田家の百々綱家ら3千人と激突(米野の戦い)、陣を突破する。これに対して織田秀信は自ら出陣、羽栗郡印(現・岐南町)で東軍を迎え撃つが敗退。岐阜城に戻る。 一方、福島正則は尾張国中島郡起(現・一宮市)から木曽川を

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