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  • 古河公方館 - Wikipedia

    古河公方館(こがくぼうやかた)は、茨城県古河市鴻巣にあった中世の城館(日の城)。鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれる。古河御所と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。 概要[編集] 享徳4年(1455年)、享徳の乱の際に、初代古河公方の足利成氏により築かれたと考えられている。古河城丸から南東へ1km程度離れた鴻巣の地にあり、御所沼に突き出た半島状台地に築かれた連郭式の中世城館である。天正18年(1590年)には、最後の古河公方足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。寛永7年(1630年)に、氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは主を失い、時宗十念寺の寺域となる。現在、当時の建築物は残されていないが、城跡の大半とその周辺は古河総合公園として整備されている。 歴史・沿革[編集] 『鎌倉大草紙』[1] 享徳四年(1455年)六月の条に「成氏は総州葛飾郡

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  • 渋川義鏡 - Wikipedia

    渋川義鏡(しぶかわ よしかね/よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。 享徳の乱を鎮める為に室町幕府から関東に派遣された堀越公方・足利政知の補佐役として共に下向するも、扇谷上杉家と対立、失脚した。 渋川義俊[注釈 2]の子として誕生。前半生は不明であり、正長元年(1428年)に父とされる義俊は隠居したが、九州探題職は譲られなかった。次の探題には義俊の従兄弟の満直が就任している。 長禄元年(1457年)、8代将軍・足利義政の命により異母兄の天龍寺香厳院主・清久が還俗し、、鎌倉公方足利政知として、翌年に関東に下向した。義鏡も共に下向したが、関東[注釈 3]に分家が存在していたこと、渋川氏が足利氏一族でも家格が高い家柄であることが理由ではないかといわれている。なお、『鎌倉大草紙』では、義鏡は既に長禄元年に関東に下向し、関東探題として兵を募ったが不足であり、義政に将軍家の者(政知)の派遣を

  • 鎌倉の戦い - Wikipedia

    鎌倉の戦い(かまくらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年5月18日-5月22日(ユリウス暦1333年6月30日-7月4日)に、相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。 なお、この元弘の乱の鎌倉における戦いの名称は、いわゆる歴史用語としては一定ではない。後世の史料上には「元弘三年の動乱」[3]のように見える場合もある。通称では「新田義貞の鎌倉攻め」「鎌倉攻め」「鎌倉防衛戦」などと呼ばれている。項では5月18日より北条高時自害の5月22日までの鎌倉における戦いを「鎌倉の戦い」という便宜上の名称で記述する。 元弘3年5月8日(1333年6月20日)、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。鎌倉幕府は迎撃の兵を向けたものの、小手指原の戦い、久米川の戦い、そして分倍河原の戦いで、新田勢に敗北した。鎌倉幕府は守

  • 四脚門 - Wikipedia

    法隆寺東院の四脚門 四脚門(よつあしもん、しきゃくもん)とは日の門の建築様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2ずつ、左右合わせて4立てたもの[1]。四足門とも表記される。 重要文化財として残る日の門の建築様式の中では最も多いものであり、正門に配されることの多い格式の高い門とされる。遺構として残るものは鎌倉時代以降のものだが、奈良時代から存在すると言われている[2]。

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  • 花の乱 - Wikipedia

    平安建都(遷都)1200年を記念して室町幕府第8代将軍・足利義政のである日野富子の生涯と、応仁の乱およびその前後の状況を描いた。 近時代には1991年の『太平記』後半が室町幕府初期となるものの、南北朝時代や戦国時代との重複期間を除いた純然たる室町期を正面から舞台とした作品は、これが初の試みとなった[1]。主演役者がナレーターを務める作品は現在まで作のみ。 12代目市川團十郎にとって1985年の團十郎襲名以来、初のNHKドラマ出演になった。また野村萬斎も作の放映が始まる1か月前に「萬斎」を襲名したばかりだった(そのため放送前のテレビ雑誌では野村武司名義である)。このドラマでテレビデビューを果たした松たか子・13代目市川團十郎(当時は7代目市川新之助)・野村萬斎らは作での演技が好評を得て、その後多くのテレビドラマに出演するようになって人気を博していく。他にも奥田瑛二、檀ふみ、2代目

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  • 畠山政長 - Wikipedia

    畠山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。は京極持清の娘。子に尚順(尚長)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。 生涯[編集] 家督争い[編集] 政長の父持富は、嫡子のない兄(政長の伯父)の畠山持国の嗣子に予定されていた。しかし持国は、庶子の義就を召し出して後を嗣がせようとしたため、畠山家中に内紛が生じた。持富は間もなく没したが、政長の兄・弥三郎が後を嗣いで義就と争った。長禄3年(1459年)に弥三郎も死去したため、政長は弥三郎派の遊佐長直・神保長誠・成身院光宣らの支持を受けて弥三郎の後継となり、義就と激しい戦いを繰り広げた。 寛正元年(1460年)9月20日、第8代将軍・足利義政の命令で失脚した義就に代わり幕府に帰参、義政よ

  • 国鉄115系電車 - Wikipedia

    1963年(昭和38年)1月から1983年(昭和58年)6月まで1,921両[注 2]が製造された[1]。111系をベースにMT54系主電動機を搭載して出力向上を図り、東北線・高崎線の上野口の通勤客増加への対応と、勾配区間を持つ上越線や日光線での運用、冬期の運用が考慮された設計となった[16][17]。上り勾配での加速力を調整可能なノッチ戻し機構、下り勾配での定速運転が可能な抑速ブレーキが搭載されるとともに、耐寒耐雪に対応する設備を備えている[17]。 さらにローカル線への投入が想定されたためクハ115形2両+モハ115形・114形ユニットで組成される4両編成を最小単位として運用できる構造を採用した[8]。1966年にはクモハ115形の製造開始により3両編成の組成も可能となった[18]。 東北線・高崎線を皮切りに中央東線や長野・新潟・岡山など各地に投入が進められた。来の運用とは別に1

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    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/09/22
    秒速5センチメートルで出てきたのはこれか 東は籍はあるけど稼働してないのが1両か あとは西としなの鉄道
  • 上杉房能 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "上杉房能" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2023年6月) 文明6年(1474年)、上杉房定の子として誕生。元服の際、守護代・長尾能景が烏帽子親となり、能の一字を取り、房能と名乗る。 長兄・定昌は早世し、次兄・顕定が山内上杉家の養子となり関東管領に就任したため、明応3年(1494年)に病没した父の跡をついで越後守護となる[2]。守護代の長尾能景の補佐を受けるが[2]、越後上杉家の戦国大名化を目指して明応7年(1498年)に守護不入特権の停止を命じるなど[2]、在地領主の特権の制約を図ったために能景らと対立する。 また、文

  • 立河原の戦い - Wikipedia

    立河原の戦い(たちかわのはら(たちがわら)のたたかい)は、1504年11月13日(永正元年9月27日)に武蔵国立河原(現在の東京都立川市)において、上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞 (北条早雲) らの連合軍との間で行われた合戦である。 長享の乱の事実上の決戦であり、事実それだけの規模に相当する戦いであったが、この戦いに勝利した上杉朝良は結果的に上杉顕定に降伏した。 享徳の乱を通じて勢力を伸ばした扇谷上杉家と、上杉氏の宗家として代々関東管領を継いできた山内上杉家の上杉氏の内紛として繰り広げられた長享の乱は、勇将として知られた扇谷上杉家当主・上杉定正が健在の頃は互角の戦いを続けてきたが、定正の死後には山内上杉家当主・上杉顕定の反撃と第三勢力であった古河公方足利政氏と顕定の同盟によって扇谷上杉家は苦境に立たされるようになった。 扇谷上杉家の新当主となった定正の甥・朝良は

  • 伊勢貞国 - Wikipedia

    伊勢 貞国(いせ さだくに)は、室町時代の室町幕府政所執事。諱は貞慶とも。父は伊勢貞行(兄とされる伊勢貞経とも)[2]、母は信州木曾の娘。兄の貞経の養嗣子となった。子に貞親、貞藤、娘(伊勢盛定室)。外孫に北川殿(今川義忠室)、伊勢宗瑞(北条早雲)。 永享3年(1431年)に兄貞経が6代将軍・足利義教によって失脚させられると、後を継いで政所執事となった。 永享6年(1434年)2月9日、義教の嫡男義勝が生まれると、3月3日に義勝を屋敷に移した。 嘉吉元年(1441年)6月24日、嘉吉の変で義教が殺害され、26日に7代将軍となった義勝が室町殿に移されるまで義勝を預かっていた。 また、幼少の義勝に代わり政治を取り仕切る管領細川持之を支持、文安5年(1448年)に細川持常と共に赤松則尚の復帰を8代将軍足利義政に取り次いだりもしている。 宝徳元年(1449年)、政所執事を辞任。 享徳3年(1454年

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  • 嘉吉の乱 - Wikipedia

    軍記物語『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。 前史[編集] 赤松氏の隆盛[編集] 赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創設の功臣となり、播磨の他に備前、美作を守護として領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。 応永34年(1427年)、満祐が赤松氏の家督を相続した時、元将軍(4代将軍)・足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐

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  • 足利義教 - Wikipedia

    足利 義教(あしかが よしのり、旧字体:足利 義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍[3](在職:1429年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の子。母は側室の藤原慶子。僧侶時代は義円(ぎえん、旧字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。 義教は、鎌倉公方の足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱で足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の権威向上に努めた。また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉

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  • 赤松教康 - Wikipedia

    元服時に第6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教康と名乗った[2]が、のち嘉吉元年(1441年)6月24日、父の満祐や叔父の赤松則繁と共に将軍・義教の暗殺に中心的な役割を果たした(嘉吉の乱)。そして父や叔父と共に播磨に帰国する。 その後、赤松氏は山名宗全や細川持常らを大将とした幕府軍の追討を受けた。8月24日に赤松軍を率いて和坂に陣を構えて、人丸塚にいた持常や赤松貞村、武田信賢らの幕府軍を破った(『東寺執行日記』)[3]。8月25日にも細川軍を破り、武将の吉川経信の侍大将らの多くを戦死させた(『吉川文書』)[注釈 1]。しかし8月26日、但馬方面から山名軍が播磨に侵入したため、坂に撤退(『赤松盛衰記』)[3]。このとき前日の雨で増水していた加古川を無理に船や筏で渡ったため、将兵の大半が溺死して一時は教康もこのとき溺死したと噂された(『建内記』)[3]。しかし坂も落ち、赤松家居城の城山城に籠

  • 高安寺 (東京都府中市) - Wikipedia

    高安寺(こうあんじ)は、東京都府中市片町にある曹洞宗の寺院である。開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。なお、江戸時代初期までは臨済宗の寺院であった。寺の随所に古刹としての面影を残すなど、多摩地域を代表する寺院の一つである。 平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って、武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり、国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には新田義貞が分倍河原の合戦で陣を構えている。これら一連の戦乱によって、寺が炎上するなどして見性寺は荒廃した。 そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き、臨済宗の禅寺に改めて再興し

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  • 鎌倉公方 - Wikipedia

    明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官[1]。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する[1]。この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではな

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  • 細川勝元 - Wikipedia

    細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府16・18・21代管領。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国守護。細川氏宗家(京兆家)11代当主。 足利一門の三管領として並ぶ斯波氏(武衛家)・畠山氏(金吾家)と競り合いつつ室町幕府に重きをなし、将軍を補佐して幕政を統括した。幕府が二分して争われた応仁の乱で、東軍総大将として西軍総大将の山名宗全と対立したことで知られている。 永享2年(1430年)、14代室町幕府管領・細川持之の嫡男として誕生。幼名は聡明丸。 嘉吉2年(1442年)8月、父が死去したため、13歳で家督を継承した。この時に7代将軍足利義勝から偏諱を受けて勝元と名乗り、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護となった。 文安2年(1445年)、畠山持国(徳)に代わって16歳で管領に就任すると、以後3度に渡って通算23年間も管領職を歴任し

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  • 足利義政 - Wikipedia

    義成は将軍宣下からまもなく、先例より一年早い14歳で政務をとる「判始」の儀式を行った[11]。判始の後に管領・細川勝元が一旦辞意を表明しており、これは将軍親政が始まる際の慣例であった[11]。享徳4年(1455年)ごろまでは管領の命令書である管領下知状が発給されていたが、義成も度々自筆安堵状を発給しており、享徳元年(1452年)には最初の御判御教書を発給している[11]。 この頃、義成の側近であったのは、乳母の今参局(御今)、育ての親とも言える烏丸資任、将軍側近の有馬元家であった。この三人は「おいま」、「からすま」、「ありま」と、「ま」がついており、落書で「三魔」と呼ばれた[12]。一方で、これに対抗する母・重子も度々人事に介入を続けた[13]。近臣や女房衆が台頭するのは親政期の特徴であり[13]、この時期の室町幕府を「義政専制」体制にあったとする説も存在している[14]。 宝徳2年(14

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    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/09/22
    2代にわたり子供の将軍就任じゃそりゃ周りに翻弄されるよな
  • 足利義勝 - Wikipedia

    永享6年2月9日(1434年3月19日)、6代将軍・足利義教の長庶子として誕生した[2]。母は側室・日野重子であるが、正室・正親町三条尹子の猶子となり、世子 として認められた[2]。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)と名付けられた[2]。 同年3月3日、畠山持国邸で一泊したのち、翌4日に政所執事・伊勢貞国の屋敷に入った[3]。その後、伊勢邸で養育され、室町第に入るまでの8年間を過ごした[3]。 嘉吉元年(1441年)6月24日、嘉吉の変が起こり、父・義教が赤松満祐に殺害されたため、26日に千也茶丸は室町第へ移された[4]。そして、管領・細川持之ら大名に擁されて、後継者となることが確認された[4]。 同年8月19日、千也茶丸は後花園天皇より、義勝の名を与えられた[4]。また、装束・髪型は童形のままであったものの、これより後は「室町殿」と呼ばれるようになった[4]。 嘉吉2年(1442年)11月

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  • 斯波義敏 - Wikipedia

    斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将、守護大名。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波(大野)持種、義父は斯波義健。子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄。 生涯[編集] 武衛家相続と甲斐常治との対立[編集] 永享7年(1435年)[注釈 1]、斯波一門の大野持種(斯波持種)の嫡男として誕生する。宝徳3年(1451年)12月12日に元服が行われた(『康富記』)。この頃、斯波家である武衛家では当主の早世が相次ぎ、一門筆頭格の大野持種と、重臣筆頭格の甲斐常治(執事、越前・遠江守護代)が幼主の斯波義健を後見していた。しかし持種と常治は相容れず、主導権を巡って対立状況にあった。 享徳元年(1452年)9月、当主の義健が18歳で死去して嗣子が無かったため、義健と同年齢の義敏が室町幕府及び重臣に推されて武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した

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  • 富士郡 - Wikipedia

    1868年(慶応4年) 5月24日 - 徳川宗家が駿河府中藩に転封。それにともない遠江・駿河・伊豆国内で領地替えが行われ、荻野山中藩領が相模国愛甲郡、西尾藩領が安房国平郡に転封、幕府領・旗領が消滅。 6月 - 小田原藩が戊辰戦争後の処分により減封。郡内の領地が消滅。 7月13日 - 沼津藩が上総菊間藩に転封。 以上の変更により、全域が府中藩の管轄となる。 明治初年(1町1宿143村) 東比奈村・西比奈村・中比奈村が合併して比奈村となる。 上前田村・中前田村・下前田村が合併して前田村となる。 西川尻村が川尻村に合併。 藤間村・藤間新田・高島村が蓼原村に合併。 入山瀬村のうち上組が上入山瀬村、下組が下入山瀬村に分割。 1869年(明治2年) 8月7日 - 府中藩が静岡藩に改称。 大宮町から万野原新田が分立。(1町1宿144村) 1871年(明治4年) 7月14日 - 廃藩置県により静岡県の管

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