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ブックマーク / ja.wikipedia.org (1,951)

  • 河越城の戦い - Wikipedia

    河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。 「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日三大奇襲(日三大夜戦)の一つ「河越夜戦」[注釈 1]である。ただし、この河越夜戦の実態は史料が少なく不明瞭であり、その存在自体を否定する説もある(#河越夜戦に関する議論)。稿では河越夜戦について詳述する。 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。 室町時

  • 伊勢貞忠 - Wikipedia

    11代将軍足利義澄に近習として仕え、永正5年(1508年)の義澄出奔後は将軍職に復権した足利義稙の御供衆となった。大永元年(1521年)の父の死後執事職を継承、12代将軍足利義晴にも仕え、亡くなるまで幕府の財政管理と訴訟を担った。天文4年(1535年)に死去、養子の貞孝が執事職を継承した。 大永3年(1523年)に義晴を自邸に招いたことを『伊勢守貞忠亭御成記』として記録した。

  • 細川高国 - Wikipedia

    細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。室町幕府31代管領。摂津国・丹波国・山城国・讃岐国・土佐国守護。細川京兆家15代当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で幕府管領の細川政元の養子となった。11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗る。弟に晴国。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 権力者だった政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、細川京兆家の家督と幕府の実権を手中にした。その後も両細川の乱と呼ばれる権力抗争が長期継続するが澄元には勝利し、将軍足利義稙を廃して義晴を擁立するなど、管領として幕政や京の都周辺の掌握を続け畿内に君臨した。一方、細川氏の支配構造の基礎である「内衆」と呼ばれた分国の重臣達は、京兆家の抗争に伴って各々対立し

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  • 足利義晴 - Wikipedia

    足利 義晴(あしかが よしはる)は、 室町幕府の第12代征夷大将軍(在職:大永元年〈1521年〉 - 天文15年〈1546年〉)[3]。第11代征夷大将軍・足利義澄の長男(または次男)。 永正8年(1511年)3月5日、第11代将軍・足利義澄の長男(または次男)として、近江国蒲生郡の水茎岡山城で生まれた[4]。幼名は亀王丸(かめおうまる)と名付けられた[4]。 母は日野永俊の娘・阿子(安養院)とされ、彼女は日野勝光や日野富子の姪にあたる人物である。しかし、永俊の娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して、将軍家で御末(下級の侍女)を務めていた「阿与」という女性が母親であって[5][6][7]、母親の身分が低かったために記録に残されなかったとする説もある。 また、亀王丸には足利義維(幼名は不詳)という兄弟がいた[8]。彼は亀王丸の兄とする説

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  • 周山会 - Wikipedia

    木曜研究会が母体。のち周山会と改名。佐藤は、旧自由党の吉田茂派を池田勇人の池田派(宏池会)と分ける形で派閥を形成し、佐藤の下には、佐藤派五奉行と言われた田中角栄、保利茂、橋登美三郎、愛知揆一、松野頼三のほか、木村武雄、二階堂進などの人材が結集した。 首相の佐藤は後継の総理総裁職に福田派の福田赳夫を希望していたが、これを察知した田中角栄が佐藤の退陣直前に派内派を結成、佐藤派102名のうち81名が参加し、後に七日会(後の木曜クラブ)として独立した。周山会は保利茂が中心となり佐藤派内の福田支持グループをまとめる。残った周山会は周山クラブと名前を変え、少数派閥の保利グループとなる。 総裁選挙後は保利グループは八日会に合流し、派閥は消滅した。佐藤派の大派閥としての地盤は田中派に引き継がれていった。

  • 韓国での日本大衆文化の流入制限 - Wikipedia

    この記事は特に記述がない限り、大韓民国の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。 ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 韓国での日大衆文化の流入制限(かんこくでのにほんたいしゅうぶんかのりゅうにゅうせいげん)では、大韓民国(韓国)における日の大衆文化の流入に対する規制について記述する。 韓国では自国文化の保護のため、また大日帝国の韓国併合とその後の日統治時代(1910年-1945年)の影響による国民感情を害するとして、日漫画映画音楽(邦楽、J-POP)など大衆文化を法令で規制してきた。 具体例としては、韓国テレビ放送において日語の歌詞を放送することの禁止、日テレビ番組を放送することの禁止等があるが、1998年から2004年にかけて合計4度にわたる文化開放措置によって、ほ

  • オナラブル - Wikipedia

    英語版記事を日語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|The Honourable|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明が

  • 五島慶太 - Wikipedia

    五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日の実業家、政治家、官僚。東急電鉄の事実上の創業者。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民[1]。 長野県の農家に生まれ、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された。 長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫の二男として生まれる[2]。幼少時分はガキ大将であったが、弱い者いじめはしなかった。1893年に青木尋常小学校

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  • 青木理 - Wikipedia

    青木 理(あおき おさむ、1966年10月26日 - )は、日のジャーナリスト。TVコメンテーター。元共同通信社記者。元ソウル特派員。身長は183cm[1]。 経歴 長野県小諸市生まれ[2]。父は元小学校教員[3]。長野県野沢北高等学校、慶應義塾大学文学部卒業後[4]、1990年共同通信社入社[5]。 同社では大阪社会部、成田支局を経て東京社会部で警視庁の警備公安部門などを担当[5]。オウム真理教事件、阪神大震災、種々の公安事件や経済事件を取材する。 1997年から1998年まで韓国の延世大学校韓国語学堂に留学し、外信部勤務を経て2002年から2006年までソウル特派員を務める。社会部在籍中の1999年に『日の公安警察』を講談社現代新書から著し「それなりのベストセラーとなって話題を呼んだ」と人は語っている[6]。 2006年6月、同社を退社。同年8月から日版『オーマイニュース』の創

  • ドカ食いダイスキ! もちづきさん - Wikipedia

    『ドカいダイスキ! もちづきさん』(ドカぐいダイスキ もちづきさん)は、まるよのかもめによる日漫画。『ヤングアニマルZERO』(白泉社)にて、2024年6月1日増刊号(5月9日発売)から連載中。初回連載では2話分が掲載された[1]。当初は隔月連載の予定だったが、反響を受けて5月17日に月一回の連載へと変更する方針が立てられた[2]。『ヤングアニマルZERO』の刊行が無い月はウェブコミック配信サイト『ヤングアニマルWeb』にて公開されている[2]。 作は、たくさんべる(ドカい)ことで血糖値を急上昇させるストレス解消法を実践する女性会社員・望月美琴の日常生活を描いている[1]。作中において、彼女にとっての「ドカい」とは単なる事というよりは快楽を得るための手段として描かれており、「血液が塩水になりそうなほど」濃い味付けが好きという設定がある[1]。一方、作中では血糖値の急上昇によ

  • リコール (地方公共団体) - Wikipedia

    署名募集期間は都道府県及び政令都市の場合2か月、その他の市町村の場合は1か月に限られる(地方自治法施行令第92条第3項)。 請求が有効であれば、請求から60日以内に住民投票が行われる(地方自治法第81条第2項)。投票の告示は、都道府県知事については少なくとも投票日の30日前に、市町村長については少なくとも投票日の20日前にしなければならない(地方自治法施行令第116条の2)。 解職投票において有効投票総数の過半数が賛成すれば、その首長(都道府県知事・市町村長)は失職する(地方自治法第83条)。ただし、投票前に対象の首長が職を失い又は死亡した場合は解職投票を行わない(地方自治法施行令第116条の2)。 その首長の選挙から1年間(無投票当選を除く)又は解職投票日から1年間は解職請求をすることができない(地方自治法第84条)。 地方議会の解散 有権者の3分の1以上(40万を超えるときは、40万を

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  • 蘭奢待 - Wikipedia

    蘭奢待 蘭奢待/蘭麝待(らんじゃたい)は、正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる。 正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅称である。 その香は「古めきしずか」と言われる。全浅香(紅沈香)と並び、権力者にとって重宝された。宝物番号は中倉135[1]。 長さ156.0cm、最大径42.5cm、重量11,600g(11.6kg)で[1]、不整形な木材。内部はほぼ空洞となっている[2]。空洞になっている部分について、幾多の成書に「朽ちてうつろになった」と記されるが[3]、数度の調査を行った薬史学者の米田該典は「燃焼時に予期せぬ香りを発しないように余分な部分を切除することは、現在も普通に行われていることで、香気成分が沈着しない部分を積極的に切除したため」としている[2]。昭和30年(1955年)の『正倉院薬物』

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    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/09/18
    東大寺から来てるのか
  • 正親町 - Wikipedia

    正親町(おおぎまち)は 京都の通りの名(正親町小路)。現在の中立売通に相当する。 正親町天皇…日の第106代天皇。 正親町家…公家の羽林家、華族の伯爵家の一つ。 正親町三条家……公家の大臣家、華族の侯爵家の一つ。明治維新以後は「嵯峨家」。

  • 真のスコットランド人論法 - Wikipedia

    真のスコットランド人論法(しんのスコットランドじんろんぽう、英語: No true Scotsman)、または純粋さに訴える論証(英語: appeal to purity)は、 非形式的誤謬のひとつである。普遍汎化に対する反例を提出されたとき、トートロジーを用いて反例を除外することで主張を防衛しようとする行為をさす[1] [2] [3]。普遍汎化を放棄したり反例を否定する証拠を提供したりせず、客観的な基準の代わりにレトリックを用いて汎化を修正し定義上その特定の反例を含まないようにする[4]。このレトリックは「真の、純粋な、正真正銘の、真正の、物の」など感情に訴えかけるだけで質的な意味のない純粋さの形容という形をとる[5]。

    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/09/17
    さらにすごい食通はそれを鼻から食うのだ!!
  • 足利義澄 - Wikipedia

    足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代征夷大将軍。(在職:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は第8代征夷大将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。継室は武衛娘。 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された[5]。しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。 文明12年(1480年)12月15日、堀越公方・足利政知の次男として生まれる。当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後

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  • 織田秀信 - Wikipedia

    織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。 生涯[編集] 能寺の変・清洲会議[編集] 清洲会議で三法師を擁する羽柴秀吉(『絵太閤記』の挿絵) 天正8年(1580年)、織田信忠の長子として生まれた。幼名は三法師。 母・徳寿院は塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも[1]。なお、母が松姫の場合、武田信玄の外孫という事になる。『美濃国古蹟考』によると、和田孫太夫女であるという。高野山悉地院過去帳は母方の祖母を進藤氏としており、進藤氏の娘の可能性もある。 天正10年(1582年)の能寺の変の際、父・信忠の居城岐阜城に在城していたが、前田玄以、長谷川嘉竹らに保護されて清洲城へと避難した。同年、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により

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  • 衛宮さんちの今日のごはん - Wikipedia

    『衛宮さんちの今日のごはん』(えみやさんちの きょうのごはん)は、TAaによる日漫画。『ヤングエース』のWebコミック配信サイト『ヤングエースUP』(KADOKAWA・角川書店レーベル)にて2016年2月9日から連載中。 TYPE-MOONのビジュアルノベル作品『Fate/stay night』を題材とした派生作品の一つ。作はハードなストーリーが展開される原作とは一線を画し、舞台である「冬木市」での平和な日常が続くパラレルストーリーという位置付けになっている。物語の中核を成しているのは「料理」であり、主人公である衛宮士郎が自身と関わり合いのある人物たちに手料理を作りべさせてあげるという展開が続く。料理については毎回きちんとした調理の仕方とレシピ漫画内で描かれており、この監修には只野まことが専門で就いている。作品のPRには「Fate×料理」というフレーズが使われている。 2017年

    tsutsumi154
    tsutsumi154 2024/09/15
    ほぼFate/hollow ataraxia世界だと思ってたけどバゼットいないとか子ギルじゃないとか違いはあるんだな バゼットは6巻にいるのか 子ギルも10巻に出てきたな
  • 筒井駅 (青森県) - Wikipedia

    当駅は東青森 - 青森間に位置する。東北線が東日旅客鉄道(JR東日)から青い森鉄道に移管後、初めて開業した駅であり、青い森鉄道にとっては唯一の平成新駅でもある[1]。当駅の設置目的は、青い森鉄道線の運賃収入の多くを占める通勤・通学利用を促進するためである[2]。当駅の設置工事は2012年(平成24年)6月下旬に始まり、翌年10月まで続いた[3]。総事業費は約7億円を見込み、国・青森県・青森市が3分の1ずつを負担している[4]。建設当初は「筒井新駅(つついしんえき)」の仮称で呼ばれていたが、2013年(平成25年)6月に正式名称として「筒井駅」に決定した。

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  • 京極竜子 - Wikipedia

    松の丸像(誓願寺蔵) 京極 竜子(きょうごく たつこ、生年不詳 - 寛永11年9月1日(1634年10月22日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。初めは武田元明の正室となり、寡婦となった後に豊臣秀吉の側室となった。 呼称は、大坂城の西の丸に屋敷を与えられたことから西の丸殿(西丸殿)、次いで伏見城に移ったことから松の丸殿(松丸殿)、あるいは京極殿(京極様)などと呼ばれた。秀吉の死後は出家して寿芳院(じゅほういん)と号した。 父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。兄(弟という説も)に京極高次、弟に京極高知。浅井長政は叔父、浅井三姉妹(茶々・初・江)は従妹に当たり、初は京極高次に嫁いでいるので義姉(妹)でもある。また、長政の娘であり従姉となるくすを乳母とし、長じて侍女としたとも伝えられる。 京極氏は浅井氏の主筋に当たり、近江の湖北地方の来の領主であったため、血筋の上では同じ

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  • 京極氏 - Wikipedia

    鎌倉時代は江北6郡の地頭であり、始祖の京極氏信は鎌倉幕府の評定衆を務めた。跡を継いだ宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。 鎌倉時代末期に当主となった京極高氏(道誉)は朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが、元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏が倒幕の兵を挙げるとそれに協力し、建武の新政に加わる。しかし建武の新政は武士の支持を得られず、建武2年(1335年)に北条時行らが中先代の乱を起こして鎌倉を占拠すると、道誉は尊氏に従い討伐へと向かい、相模川で時行軍の背後を奇襲し、勝利に寄与する。 尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せ、朝廷が新田義貞を総大将とする尊氏の討伐軍を発すると、道誉は尊氏軍として義貞軍と矢作川で戦うが敗れ、手越河原の戦いでは弟の貞満も討たれ、いったんは義貞に下るが、次の箱根・竹ノ下の戦いでは尊氏方として戦い勝利する。 延

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