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  • 名古屋城 - Wikipedia

    16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。 1538年(天文七年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、1542年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となった(かつては1532年に城を奪取し、信長は那古野城で生まれたとされていたが、近年は上記の為勝幡城で生まれたという説が有力である)。1555年(弘治元年)に信長が清須城(清洲城)に拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが家臣に殺害されたため、家臣の林秀貞が守ることになるもやがて廃城となった。 現代にみる清須越しの距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。2009年2月 大天守石垣内で、「加藤肥後守内小代下総」(加藤肥後守の家臣、小代下総守(小代親泰))と刻まれた石 清須城は長

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  • 少弐氏 - Wikipedia

    少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになる。 同時に、資頼は藤原道長の後裔と称し、代々が武蔵国に知行を持ち、武藤氏を称したという[1]。さらに、鎮西豪族の興亡を記した戦記物によると、「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、武藤中将と称した。その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った」とある。これによれば、頼氏の子孫とする資頼は道長の後裔ということになる[2]。 武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平

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  • 寧波の乱 - Wikipedia

    の室町幕府と中国の明朝との間で行われた日明貿易(勘合貿易)は、室町初期の幕府第3代将軍・足利義満、明の第2代皇帝・建文帝の頃に開始され、明が海禁政策を行っている事情から足利将軍家の幕府将軍が「日国王」として冊封し、倭寇と区別するため勘合符を発行して相手を承認する朝貢形態で行われ、十年一朝など制限がされていた。幕府が派遣する使節には博多や堺などの有力日商人が随行し、その間で私的な貿易が行われていた。 足利将軍家の家督争いなどから応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、幕府の管領家で堺を貿易の拠点にしていた細川氏や、山口を拠に博多、応仁の乱で得た兵庫などに権益を持っていた大内氏がそれぞれ独自に使節団を派遣した貿易をはじめ、大内と細川は勘合符を巡って対立していた。明で正徳帝が即位し、大内氏が遣明船(勘合船)を主催して発行された正徳勘合符を独占する。 大内義興が追放されていた前将軍・

  • パズル通信ニコリのパズル一覧 - Wikipedia

    ニコリ162号[1]で記載されたコーナー出身のパズル、およびそれ以降の号で二軍になったパズルは以下の通り。前述のコーナーの後ろのページ(二軍)に移ったものは☆印、コーナーから独立したものは○印で表した。括弧内には初登場年と号数を示す。また、180号時点でコーナー後ろ(二軍)の位置にあるものは太字で示す。 アイスバーン☆(2004年・108号) アンドレ☆(2007年・120号) 因子の部屋○(2000年・92号) ウソワン☆(2016年・151号) お家へ帰ろう☆(2005年・111号) おれひとりシークワーズ○(2016年・155号) 書き取りスケルトン○(2004年・108号) 数コロ☆(1992年・40号) 漢字部品マット○(2001年・94号) カントリーロード☆(1997年・65号) キンコンカン☆(2005年・89号) クリーク☆(2005年・110号) クロット☆(2012年

  • 中務省 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "中務省" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2020年2月) 天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担ったことから、八省の中でも最重要の省とされた(一説には大宝律令以前は宮内省とともに六省の上にあったという)。 長官である中務卿は他省の卿より高い正四位上相当とされ、平安時代以降はもっぱら四品以上の親王を遇する地位となり、欠員が生じても適当な親王が出るまでは空席とされた。平安中期の康平4年(1061年)に敦貞親王が薨去してから鎌倉時代中期の文永2年(1265年)に宗尊親王(鎌倉幕府将軍)が任じられるまで、ある

  • 山上宗二 - Wikipedia

    山上 宗二(やまのうえ そうじ、天文13年(1544年) - 天正18年4月11日(1590年5月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商(町衆)、茶人。なお忌日は2月27日(新暦になおすと4月1日)という説もある。屋号は薩摩、号は瓢庵。姓は石川氏。子は山上道七。 千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟で、利休に同行して茶会に出席している様子が当時の茶会記から確認できる。 茶匠として豊臣秀吉に仕え、織田信長にも仕えたとする説もある。 天正12年(1584年)、理非曲直の発言で秀吉の怒りを買い、追放され、浪人となる。この後、前田利家に仕えるようになるが、天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせたために高野山へ逃れ、天正16年(1588年)頃から自筆の秘伝書『山上宗二記』[1]の写を諸方に授けている。のち、小田原に下って北条氏に仕えた。 天正18年(1590年)の秀吉による

  • 大徳寺 - Wikipedia

    大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大山の寺院。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。 大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。

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  • 益富城 - Wikipedia

    益富城(ますとみじょう)は、福岡県嘉麻市中益にあった城である。 歴史[編集] 永享年代、九州征伐の際に大内盛見が築城したといわれている。その後は日田街道と長崎街道を結ぶ町交通の要衝である大隈に築城された当城は争奪戦の的となり、永禄期(1560年頃)には毛利元就が領有し、城番に杉忠重を置いた。戦国時代末期には、古処山城を拠とする秋月氏の支城の一つとなった。 安土桃山時代、豊臣秀吉による九州の役(天正14年(1586年)- 天正15年(1587年))で秋月氏が敗れた後は早川長政が城番となったが、早川氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため、領地を召し上げられた。その後は関ヶ原の戦いの功績により筑前国一国を与えられた黒田氏が筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つとして位置づけ、家臣を居城させた。一時後藤基次が城主を務めたが、慶長11年(1606年)に基次が出奔した後、六端城の一つであった筑前国鷹取城

  • 古田重広 - Wikipedia

    父・古田織部は茶人として天下一の宗匠であった。慶長20年(1615年)大坂夏の陣の際、織部の婿の元大津代官の鈴木左馬介と茶堂の木村宗喜らが、庶兄の九郎八(重行)などを通して豊臣氏に内通して京に放火し混乱に乗じて徳川家康・秀忠暗殺を企んだ疑いにより京都所司代・板倉勝重に捕らえられた。宗喜の主君である織部も、冬の陣の頃から豊臣氏と内通して徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ知らせたなどの嫌疑をかけられ、父織部は大坂落城後の6月11日に伏見城下の屋敷で切腹した。 重広は、『駿府記』などによれば父と同日に伏見で切腹させられた[2]とあるが、『断家譜』には、12月27日に江戸の誓寺で斬首されたとされている[3]。父と同日に切腹したのは、弟の親子たちである。

  • 外濠 (東京都) - Wikipedia

    江戸城総構え。左側外周、御成門 - 溜池 - 水道橋、および水道橋 - 一ツ橋門の日橋川が外濠。 外濠(そとぼり)とは、かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。 1970年代の飯田濠埋め立てまで、濠を埋めることが度々行われてきたが、現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般である。 外濠沿いに社を有するヤフーや前田建設工業など19社が、水の流れの復活で外濠を浄化・再生しようと「外濠水辺再生協議会」を立ち上げ[1]、企業連合を作って市民と連動して景観を良くしていこうという動きが見られる[2]。 千代田区から神田地域を除いたエリアの図。かつてはこの輪郭をほぼ完全に水路が囲んでいた。 「外濠」の語を広い意味で用いる場合、その経路はおおむね、現

    外濠 (東京都) - Wikipedia
  • 於玉ヶ池 - Wikipedia

    於玉ヶ池(おたまがいけ)は、現在の東京都千代田区岩町にあった池。「お玉ヶ池」として東京都指定旧跡となっている(所在地は千代田区岩町2-10、1955年3月28日指定)[1]。 伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる。 『江戸名所図会』によると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある[2]。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池[注釈 1]と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷[注釈 2]を建立して彼女の霊を慰めたという[4]。 江戸時代以前は、不忍池から南下する流れが有り、於玉ヶ池を経由し南流し、現在の東京湾へ注いだ(小網神社付近の入江)。江戸時代に南下する流れは無くなった(神田川が瀬替えされ東西に横

  • 仙石政明 - Wikipedia

    万治2年(1659年)3月1日、信濃上田藩主・仙石氏の一族である仙石忠俊の長男として誕生。 父・忠俊は2代藩主・仙石政俊の世嗣であったが、寛文7年(1667年)2月に早世したため、政明が祖父・政俊の養嗣子となり、寛文9年(1669年)2月25日に政俊が隠居すると家督を継いだ。しかし幼少のため、実権は政俊が握っていた。藩主就任のとき、政俊の弟・仙石政勝に2000石を分与したため、上田藩は5万8000石となった。 寛文12年(1672年)12月28日、従五位下・越前守に叙任する。延宝2年(1674年)7月に政俊が死去すると、仙石政勝や松平光勗らの補佐を受けた。藩の財政がこの頃から行き詰まったため、延宝3年(1675年)7月に上米・倹約令などを出している。 天和元年(1681年)には酒井忠能の改易により、駿河田中城受け取り役を務めた。また同年、上野沼田藩のお家騒動と改易に伴い、真田信利の三男・栗

  • 平手汎秀 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "平手汎秀" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2010年12月) 平手 汎秀(ひらて ひろひで、天文22年1月2日(1553年1月15日)[1] - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。幼名は秀千代。通称は甚左衛門。 官位は監物。平手政秀の三男、もしくは政秀の嫡男とされる久秀の嫡男(つまり政秀の孫)ともいわれる。母は加藤清正の姉とされる[2]。 『信長公記』に登場する平手政秀の三子のうち、系図類においては政秀の子である平手久秀の子にあたる。久秀も官位は「監

  • 松代城 - Wikipedia

    松代城(まつしろじょう)は、信濃国埴科郡海津[1](現・長野県長野市松代町松代)にあった日の城。元々は「海津城」(かいづじょう)とよく呼ばれていたが、「貝津城」とも言われた。また「茅津城」(かやつじょう)とも言われ、茅の生い茂った地であったと伝える説もある。城の形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。なお、越後国頚城郡にある松代城の読みは、「まつだい」である。 海津城の正確な築城時期は不明である。戦国期、甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、着実に領土を併合して北へ目指していく途中、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)と北信・川中島地域で軍事衝突した。この武田晴信と長尾景虎の最初の対決、にらみ合いは、その後の北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展した。この時、千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備された。『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野

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  • 森可成 - Wikipedia

    姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・鎮守府将軍八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫にあたる。森氏は義隆の3男・若槻頼隆の次男・森頼定に始まる(家伝の詳細は森氏の項を参照)。同じ織田氏家中には同族の毛利広盛がいる。 可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃に住んで代々土岐氏に仕えた。弟に可政、子に可隆、長可、蘭丸(成利、長定説も)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)、忠政、娘(木下勝俊室)、娘(関成政室)など。 系譜 森判官代頼定-森二郎定氏-頼氏-光氏-氏清-頼俊-森左京亮頼師-頼長-森七郎右衛門尉頼継-可光-越後守可房-森越後守可秀-森越後守可行-森三左衛門可成-森武蔵守長可=森左近衛中将忠政 しかし、この系譜は仮冒という説もある。 大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれた。 美濃国の守護大名である土岐氏に仕えた森氏は土岐氏に

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  • 細川昭元 - Wikipedia

    細川 昭元(ほそかわ あきもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。阿波国・摂津国・丹波国守護。官位は正五位上・右京大夫。細川京兆家19代当主。 幼名は聡明丸。のち、足利義昭の偏諱を受けて昭元と名乗るが、織田信長の政権下では信元(のぶもと)、信良(のぶよし)と名乗っていた(最終的には昭元に名を戻している)。義昭の偏諱を受ける前は、六郎の通称(仮名)を諱の代わりに用いていた。 室町幕府34代管領・細川晴元の子として誕生。母は六角定頼の娘。 幼少期の天文21年(1552年)、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる[注釈 1]。父が再び長慶と敵対すると管領・細川氏綱と共に山城国淀城に軟禁され、永禄元年(1558年)に11歳で長慶のもとで元服した。 永禄4年(1561年)、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍・足利義輝の命を受け近江国に於いて反三好の兵を挙げるが戦死した

  • 月山富田城の戦い - Wikipedia

    天文10年(1541年)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。 毛利元就が九死に一生を得た七騎坂 天文11年1月11日(1542年1月26日)に出雲に向かって大内軍隊が出陣。大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆兼らが兵を率いていた。

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  • 月山富田城 - Wikipedia

    月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田にあった日の城。月山(標高183.9m[1][2][3])に営まれる。出雲源氏・富田氏の世居した城で、京極氏に支配権を奪われてからは、その守護代・尼子氏が在城した。のち尼子氏は主家・京極氏を追放して戦国大名となりこの城を拠とした。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定されており、また周辺は清水月山県立自然公園(月山・富田城跡地区)となっている[4]。 出雲源氏・富田氏の世居した城で、出雲国守護代の居城が塩冶より富田に移ってからは、守護代が在城した。1396年から1566年(戦国時代)には大名尼子氏の拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となる。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げた。その孫・尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となり、天然の地形を利用した難攻不落の要塞城

    月山富田城 - Wikipedia
  • 畠山義春 - Wikipedia

    天正5年(1577年)に七尾城が上杉輝虎(上杉謙信)に落とされると、一旦上杉一門の上条政繁の許へ預けられた後に謙信の養子となった[2]。その後、上条政繁[注釈 3]に子がなかったため、改めてその養子となる。畠山氏は足利氏一門の名門で、足利氏の外戚である上杉家との血縁も有し、家格も充分であった[注釈 4]。 成人後は越中国・能登国前線に配置され、後に養父に従って信濃国海津城に入城する。天正12年(1584年)、長男・景広[注釈 5]を人質として豊臣家へ送られることが決まると、証人として義春も上洛した。その際に代償として軍役と領内の諸役を免除されている。 天正14年(1586年)、政繁が上杉家を出奔し、のちに義春自身も天正16年(1588年)頃に出奔した[注釈 6]。これに激怒した景勝は、実妹(姉とも)[注釈 7]である義春夫人とその子供たち全員を捕縛し、10年近くもの間座敷牢に幽閉した[要出

  • 畠山七人衆 - Wikipedia

    畠山七人衆(はたけやましちにんしゅう)は、戦国時代において能登畠山氏(七尾畠山氏)を事実上支配した政治組織及び、それを務めた7人の畠山家の重臣を指す。筆頭の温井総貞と守護代の遊佐続光によって主導された。七人衆体制の崩壊後も、そのメンバーである遊佐続光と長続連らによって能登畠山家の運営がなされた。しかし、遊佐続光の裏切りにより、七尾城の戦いで長続連は暗殺された。 概要[編集] 前史と畠山七人衆の成立[編集] 能登畠山家は7代目・畠山義総の頃に全盛期を迎えるが、義総の死後、以下に挙げる7名の重臣(年寄衆)の合議制によって政策運営がされるようになる。 また、次の8代目・畠山義続は七人衆の傀儡であり、畠山家の政策は、筆頭の温井総貞を始めとする七人衆に委ねられていた。 第1次畠山七人衆(1552年 - 1553年) 伊丹総堅 平総知 長続連 温井総貞 三宅総広 遊佐宗円 遊佐続光 第2次畠山七人衆(