堀の水が大きく満ち引きする 春の日の午後に中津城を訪れると、本丸の東側から北側の、二の丸とのあいだに掘られた通称、薬研堀には水が少なく、随所で堀底が露わになっていた。 ところが、翌朝に再訪すると満々と水を湛えていたので驚いた。大雨が降ったわけではない。本丸の西側を流れる山国川(中津川)の水位上昇にともない、堀も水で満たされたのだ。 中津城(大分県中津市)は周防灘に流れ込む山国川河口近くに、天然の堀である川に向かって扇状に築かれていた。いまも堀には水門から汽水が流れ込んでおり、潮の満ち引きにしたがって水位が上下している。 山国川に臨む、丸山と呼ばれた小さな丘を削って城を築いたのは、天正15年(1587)、九州平定を終えた豊臣秀吉から豊前(福岡県東部および大分県北西部)6郡をあたえられた黒田官兵衛孝高だった。翌年から、水に囲まれた要害をめざして築城が進められ、後述するように、いまも黒田時代の痕
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