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2008年2月25日のブックマーク (2件)

  • アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神 - tukinoha’s blog

    以前からこのカットが気になっていました。 『CLANNAD』第2話より、近景のクローズアップと遠景とを組み合わせた構図。上のカットの場合、視聴者に見せようとしているのは明らかに中央奥の人物であるにも関わらず、それを直接見せるのではなく、前方の遮蔽物越しに「垣間見」させている。このような構図を一般に「縦の構図」と呼びますが、これはどういった狙いで使われているのか、またどのような文化的背景から生み出されたのか、ということについて考えてみたいと思います。 最近のアニメ作品において、この「縦の構図」を多用したものとして『ef - a tale of memories.』が挙げられます。 前方の遮蔽物とにの比較によって、奥に描かれている人物との距離感、その小ささが強調されています。ここで僕たちはまず、二次元のアニメからどのようにして三次元の情報である「奥行き」を感じているのか、ということについて確認

    アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神 - tukinoha’s blog
  • 【週末読む、観る】◇文芸時評3月号◇冗長さが現在の「文学」 (1/2ページ) - MSN産経ニュース

    現在の文学研究は「文学とは何か」という問いはすでに破産していると考えている。遠くロシア・フォルマリズムが「文学性」という質が「文学」にはあると信じて、失敗して以来だ。ところが、現在はこういう愚直な問いが必要な時期らしい。ライトノベル、コバルトシリーズ、ケータイ小説。これらが「文学」であるかないかを問わなければ、「文学」の輪郭が溶けてしまいそうな雰囲気がある。 桜庭一樹『私の男』(文芸春秋)が直木賞を受賞した。父親とのインセスト(近親相姦)を書いた小説だ。ある編集者からある書店の「カリスマ店員」が「コバルトの方がもっと上手(うま)い」と言っていたと伝え聞いた。直木賞の選考委員がコバルトシリーズを読んでいないことは確実だろうから、痛いところをついている。しかし、それでも『私の男』の方により多く「文学」を感じるとすれば、それはむしろその冗長さにあるように思う。たった一つのテーマを長々と書く、テ