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ashizu氏に関するtukinohaのブックマーク (22)

  • 「エンドレスエイト」から立ち上がってくる倫理――平行世界の確率論的な倫理について - metamorphosis

    先日まで、『涼宮ハルヒの憂』のアニメにおいて、八回にわたって、「エンドレスエイト」のエピソードが放送されたわけだが、ネットでの議論を少し見た限りでは、同じ内容の話を何度も繰り返して放送することに対する賛否が主に話されていて、物語内容についての解釈等についてはあまり話されていないという印象を受けた。そういうこともあって、ここでは、「エンドレスエイト」が八回にわたって放送されたことについてはいったん脇に置いて、まずは、その物語内容の側面から、この作品について考えていきたいと思っている。 『涼宮ハルヒの憂』という作品の興味深いところは、複数の視点、複数のパースペクティヴのギャップというものが、非常に上手く提示されているところである。この作品について、そこには、キョンの一人称視点しかないというふうに言うこともできるだろうが、キョンの一人称を取り巻く形で、他の登場人物のパースペクティヴも問題にな

    「エンドレスエイト」から立ち上がってくる倫理――平行世界の確率論的な倫理について - metamorphosis
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独 - metamorphosis

    井之頭五郎とは、いったい、何者なのか? 彼は、この作品においては、まず、非常に特別な人間として登場する。どこにでもいる人間ではなく、非常に特殊な人間。それは、「若き大女優」とのパリでのロマンスの思い出があるような人物である。そうした特殊な人間が、山谷という、これまた特殊な場所を訪れることによって生じる違和感。井之頭五郎の孤独がまず位置づけられるのは、こうした特殊性においてのことである。 しかし、井之頭五郎の孤独は、徐々に一般的なものになってくる。五郎は特別な人間ではなくなり、言ってみれば、大衆の代表者のような人物になっていく。そこにおいて、問題となる孤独は、彼個人の特殊性から生み出される孤独ではなく、われわれの孤独となる。若き大女優とのラヴロマンスも、江ノ島での「さえない思い出」へと変化していくのである。 五郎の孤独を、特殊なものではなく、一般的なものとして捉えることがぜひとも必要だろう。

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その2)――満たされない空腹としての孤独 - metamorphosis
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声 - metamorphosis

    今回は、まず、『SPA!』2008年1月15日号に載った『孤独のグルメ』の特別編から話を始めたい。 この特別編の舞台は病院である。つまり、病院べる井之頭五郎の姿が(半ばパロディ的に)描かれるわけである。これまで、この『孤独のグルメ』論で問題にしてきたことの文脈から言えば、病院という場所は、孤独な都市生活者にとって、ほとんど唯一の休息の場所だと言えるだろう。そこは、また、近代文学者にとっての安らぎの場所でもある。極言すれば、近代文学者にとっては、病気(精神的にも肉体的にも)であることが過酷な日常生活を送るための防衛措置となっているのであり、同様のことは、都市生活者にとっても、ある程度、言えることなのである。孤独な都市生活者は、出口のない迷路の中を当てもなくさまよい続けて、最終的には行き倒れて死ぬわけだが、その前に、一種の予行演習として、病院に運ばれるわけである。病気や怪我が治って退院し

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声 - metamorphosis
  • 『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis

    毎度のことだが、新作アニメの消化がスムーズに進まない。前クールのアニメもまだかなり残っている。 そんな中でも、話題の『けいおん!』は見ているのだが、すでにネット上でかなりの人がこの作品について語っているので、別に今この作品をあえて問題にしなくてもいいかなあ、と漠然と思っていたのだが、昨日、たまたまYouTubeにアップされていたオープニングの曲を歌詞を見ながら何度も聞いてしまって、その歌詞があまりにも良かったので、それに引きずられるような形で、『けいおん』のアニメについて、現在思っていることをちょっと書いておきたい。 今のところ、三話まで『けいおん』を見たが、僕は、この三話だけで、この作品を完全肯定していいと思っている。それは、アニメの出来不出来という問題の他に、個人的な思い入れももちろんあるのだが、そこら辺のことをちょっと書いてみたいと思う。 以前に書いたことであるが、僕は、『らき☆すた

    『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis
  • 喪失感と諦念――アニメ『WHITE ALBUM』に見出される時代認識 - metamorphosis

    『WHITE ALBUM』のアニメを最後まで見たので、またちょっと感想を書いておきたい。 この作品を見ていて個人的に気になったのは、昭和と平成という時代の違いがどこにあるのかとか、80年代はどういう時代だったのかとか、そのようなことである。このアニメが描いている1986年(昭和61年)という時代、僕は小学生くらいだったが、果たして過去の自分の実感として、このアニメで提出されているような時代の描き方で問題がないかどうか、自分もまたこのような世界を生きていたのかどうか、そういうことがやはり気になるのである。1986年が仮にこのアニメで描かれるような時代だったとして、それから現在まで、果たして時代はどんなふうに推移していったのだろうか、と。 しかし、アニメをずっと見ていて思ったのは、おそらく、このような問いの立て方は間違っているのではないか、ということである。このアニメ作品が舞台にしている時代は

    喪失感と諦念――アニメ『WHITE ALBUM』に見出される時代認識 - metamorphosis
  • ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について - metamorphosis

    アニメ『天体戦士サンレッド』を最後まで見た。この作品の舞台である武蔵溝ノ口には何度も足を運んだことがあったので、非常にリアルに描かれる駅前の風景などを見ているだけでも楽しめるところがあった(もちろんギャグも面白かったが)。 この作品を見ていて、地方性というものについて、いろいろと考えさせられた。単に武蔵溝ノ口という特定の地域が舞台になっていることだけに興味を持ったわけではなく、なぜそのような特定の地域をリアルに描かねばならないのか、ということをいろいろと考えさせられたのだ。グローバル社会とかグローバル資主義などという言葉が囁かれている昨今、それと歩調を合わせるかのように、ローカルなものにも焦点が当たられるという傾向が出始めているように思う。 『サンレッド』においてローカルなものの描き方が秀逸だと思うのは、正義の味方と悪の組織との闘いという大きな枠組の内部でローカルなものが提示されるのでは

    ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について - metamorphosis
    tukinoha
    tukinoha 2009/03/29
    「正義と悪との闘いという大きな物語が極めてローカルな街で展開されるということ。ここにはシニカルな相対化の視点が見出されることだろう」
  • 貧しい日本文化の表現としてのアニメーション

    現在、日のみならず、全世界が経済危機という名の荒波に飲み込まれているわけだが、そんな時代状況だと、今後日はいったいどんな国になっていくのだろう、というような日の行く末のことを考えないではいられない。しかしながら、このような懸念を、僕は、昨日や今日になって急に抱いたわけではなく、90年代後半からずっと抱き続けてきたと言える。経済的な繁栄が頭打ちした日に明るい未来はないのではないか、という不安をずっと抱き続けてきたのだ。 しかし、そもそもの日国というものを考えたときに、日というのは、豊かな国であるというよりも、どちらかと言えば、貧しい国と言えるのではないだろうか? こういうことを、僕は、しばらく前から、考え続けている。もちろん、日は経済的に豊かな国であったし、現在もそうだと言えるだろう。そういう点では、日はまったく貧しくはないわけだが、しかし、そのような経済的な豊かさすらも、日

    貧しい日本文化の表現としてのアニメーション
    tukinoha
    tukinoha 2009/01/30
    一理ある。
  • 『ゲド戦記』が面白くない理由――映像作品における監督の役割 - metamorphosis

    アニメ『ゲド戦記』を見た。『ゲド戦記』については、すでにネットでかなりの言及がなされているが、そうした評判をいろいろと見た上で、今回見に行ったわけである。『ゲド戦記』にまつわるネットの話題は、作品の内容についてのもの以上に、監督の宮崎吾朗やスタジオジブリの現状等々の周辺事情に関わるものが多く見受けられたが、こうした作品外の次元を抜きにしては、この『ゲド戦記』という作品はもはや見ることができない。そういう意味で、『ゲド戦記』は、まさしく、現代という時代の作品だと言えるだろう。 『ゲド戦記』についての言及をネットで読んでいて、少し疑問に思ったことがあった。それは、たとえ監督が素人であったとしても、他のスタッフが優秀であれば、それなりにいい作品になるのではないか、という疑問である。今回の映画鑑賞は、その点を検証するためのものだったと言っても過言ではない。結論を先に言えば、やはり、監督というポジシ

    『ゲド戦記』が面白くない理由――映像作品における監督の役割 - metamorphosis
    tukinoha
    tukinoha 2008/09/13
    「ジブリのアニメは、われわれがもうすでに失ってしまったものがまだ存在していると、そんなふうに錯覚させる一種の幻覚剤(幻影装置)になっているところがあるように思えます。」
  • 近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis

    極めて今日的なテーマとして暴力というものがあるだろう。いったいなぜ暴力が問題になるかと言えば、暴力を問題にする観点はいくつもあるだろうが、まずひとつ言えることは、われわれが他者と関わるときに、その他者が極めて暴力的な存在として浮かび上がってくるということがある。その他者自身には、周囲の人間を不快にさせようという悪意を持っていなくても、周囲の人間にとっては、その他者の行なうことが、さらには、その他者の存在自体が、不愉快な侵犯として感じられるということがありうる。結果、この他者を排除しようとするときに暴力が生じることになるだろうが、そこで暴力を行使する者は、往々にして、自分を被害者の場所に位置づけていることだろう。つまり、自分は先に他者から暴力を受けており、そうした暴力に対する正当防衛として暴力を行使するのである、と。 今日のサブカルチャー作品で同居をテーマとして描いた作品はいくつもあるが、そ

    近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して - metamorphosis
    tukinoha
    tukinoha 2008/09/01
    前回の「セキレイ」論もそうだけど、偽の関係から真実の関係(往々にして「運命」と呼ばれる)が何故今日において求められるのか、ということが鍵になっている気がする。
  • 2008-06-15 - metamorphosis『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その5)――日常系の自己反省的効果、過剰な要素としての反復する名前CommentsAdd Star

    いわゆる「日常系」というジャンルに『らき☆すた』も含めることができるだろうが、しかしながら、そこでひとつの作品ジャンルとされている「日常」とはいかなるものなのか、「日常」という言葉の内実とはどのようなものなのか、ということがひとつの問題となる。 アニメ『みなみけ』の前口上「この物語は、南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く物です。過度な期待はしないでください」は、この作品を一度でも見たことがある人ならば同意してもらえると思うが、極めて逆説的な自己規定である。そこでは、南家の「日常」が描かれているかも知れないが、それを「平凡」と呼ぶことは決してできないだろうし、そもそもそこで描かれている出来事が「日常」であるかどうかも疑わしい。 宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』で『うる星やつら』を引き合いに出して「終わりなき日常」について語っていたが、これも逆説的である。つまり、『うる星やつら』では友引町の

    2008-06-15 - metamorphosis『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その5)――日常系の自己反省的効果、過剰な要素としての反復する名前CommentsAdd Star
    tukinoha
    tukinoha 2008/07/20
    日常系について。
  • 暴力とコミュニケーション――アニメ『ブラスレイター』について - metamorphosis

    現在放送中のアニメ『ブラスレイター』は、暴力とコミュニケーションを巡って、様々な問題を提起している作品だと言える。暴力とコミュニケーションとの関係は、端的に、こう言えるだろう。話すことができないとき、話すことが無力であるとき、そこに暴力が生まれる、と。つまり、暴力とは、話すことの代わりに行なわれる行為、話すことによって何も問題が解決がされないときに行なわれる代償行為であると言える。ということは、つまり、暴力行為があるところには、常に、未だ言語化されていない言葉があると言えるだろう。 アニメ『紅 kurenai』もまた、暴力とコミュニケーションとを扱っていた作品だと言える。見ず知らずの他者との同居は、端的に、コミュニケーションの問題を提起する。問題解決の手段として、話をすることは、時に極めて無力なことがあるだろう。暴力を用いれば問題解決が容易な場面があることだろう(揉め事処理屋としての紅真九

    暴力とコミュニケーション――アニメ『ブラスレイター』について - metamorphosis
  • セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて - metamorphosis

    セカイ系作品はこれまで多くの批判にさらされてきたと言えるが、セカイ系を批判するときにしばしば持ち出される言葉がある。それは「閉鎖的」というものである。「セカイ系」という言葉の定義の一部をなしている、社会的な領域の欠如という特徴が含んでいるニュアンスもそうした閉鎖性であるだろうし、「きみとぼく」というカップルの関係についても、そうした閉鎖性が指摘されることだろう。 宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』では、セカイ系が批判の対象になっているわけだが、そこでのポイントというのも、閉鎖性、閉じこもり、引きこもりである。宇野常寛のエッセイにおけるセカイ系のイメージは、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジに集中している。碇シンジは、劇場版(「Air/まごころを、君に」)での彼の行動が顕著であるように、世界が危機的な状況にあるにも関わらず、何か積極的な行動をすることもなく、引きこもる。 このような指摘に対して

    セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて - metamorphosis
  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈 - metamorphosis

    前回提起した問題、つまり、アニメ『らき☆すた』第1話のべ物に関するエピソードについての問題とは、簡単にまとめると、こういうことである。すなわち、われわれは、ある時には、何かについての価値判断の多様性を認める。あるものに対する評価について、そこでの評価が多様になったり、相反したものになったとしても、そうした違いを相互に認め合うことができる。しかしながら、別の場面においては、何らかの「正しさ」が争われ、あることに対してどう判断するのかということを巡って、例えば、正常/異常、常識/非常識という区別がなされる。 前回は、こうした議論を、「KY」という流行語と関わらせながら、展開していったわけだが、ここでのポイントとは、共通前提の崩壊という仮定にある。意見の相違や価値観の多様性などというものは、一般的に考えれば、極めて当たり前のことであって、ことさらに問題にすべきことではないだろう。しかしながら、

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈 - metamorphosis
    tukinoha
    tukinoha 2008/05/18
    素晴らしい洞察。
  • 2008-04-17 - metamorphosis - 世界は素晴らしい、しかし、それにも関わらず――新海誠の『遠い世界』

    「other worlds」。異世界。この世界とは別の世界。 副題が「other worlds」にも関わらず、この作品に描かれているのは、別の世界、異世界ではない。異世界は、常に、この世界とは別の場所にあるものとして、ほのめかされているだけである。そこにあるのは、ある想定や仮定である。つまり、もし、この世界とは別の世界がありうるとすれば。 鬼頭莫宏のマンガ『ぼくらの』で、登場人物たちが闘う相手というのは、この世界とは別の世界の住人たち、この世界とは別の可能性の下にありうる世界(いわゆる「平行世界」)の人たちである。この世界がこのようなものである必然性はそこにはない。この世界は、たまたま、このようなものになったというだけであって、そこには別の可能性もありえた。別の世界が提示されるための条件として、このような偶然性や可能性、あるいは、代替可能性というものが想定されることだろう。そこには、どうし

    2008-04-17 - metamorphosis - 世界は素晴らしい、しかし、それにも関わらず――新海誠の『遠い世界』
  • 2008-03-22 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ

    『孤独のグルメ』について書くのは今回で最後にしたい。そこで、今回は、今まで提出した観点をまとめてみることにしたい。 まず最初に提出したのは、モノローグという観点である。ここでのモノローグは、ダイアローグの不在と言い換えることができるだろう。つまり、『孤独のグルメ』においては、対話が描かれることはほとんどなく、作品は井之頭五郎の独白によって構成される。言い換えれば、そこには物語が根的に欠如しているのである。物語がそこにあるとしても、それは最小のものであり、前の話が後の話に続くということもありえないし、出来事が拡大していくということもない。五郎は、ただ単に、店に入って事をし、独白するだけである。 しかし、だからといって、五郎は、あらゆる人間関係を自分から遠ざけようとしているわけではない。むしろ、彼は、ある点において、他人と非常に重要な関係を取り結んでいる。それが、つまりは、群衆との関係であ

    2008-03-22 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独 - metamorphosis

    この前まで続けていた『ぼくらの』論の中で、僕は、現代人の孤独というテーマを少しだけ提出してみたが、この点をもっと掘り下げてみたいと思ったので、今回からは、久住昌之原作、谷口ジロー作画の『孤独のグルメ』をテキストとして取り上げて、現代人の孤独について語っていきたい。 問題としたいことは現代人の孤独であるが、しかし、この孤独という言葉が何を指すかということがまた問題である。むしろ、『孤独のグルメ』というこのマンガ作品について語っていくことで、孤独という言葉の意味内容とその周辺で問題になることとを浮き彫りにできればいいと思っている。 当たり前のことであるが、現代人の(孤独な)生活を問題にするからと言って、現代人の生活一般を問題にすることはできない。このマンガ作品に描かれているのは、現代人の生活の一面である(とりわけ都市に住む人間が問題になっている)。しかし、この一面が非常に多くのことを語っている

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独 - metamorphosis
  • 『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis

    『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか? 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しかしながら、過去のガイナックス作品のことを考えるのであれば、『グレンラガン』は、80年代にガイナックスが作った作品の反復である、とも言えるだろう(そもそも、ガイナックスの出発点は、過去のアニメや特撮をパロディにした作品を作っていたアマチュア集団である)。80年代にガイナックスの作った作品が、旧来のアニメや特撮の反復であるとしたら、『グレンラガン』は、まさに、そうしたガイナックスの行為の反復、「反復」の反復であると言えるだろう。 具体的に作品名を上げれば、『グレンラガン』は『トップをねらえ!』の反復であるように思えた(特に物語構造上)。他にも、『王立宇宙

    『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis
    tukinoha
    tukinoha 2007/10/16
    現実世界で突破するべき「壁」がなくなったときに訪れる悪夢が「セカイ系」。それを避ける方法-熱血(グレン)あるいは日常に満足する(らきすた)
  • metamorphosis 『ぼくらの』と倫理的問題(その1)――アニメ版とマンガ版の違いはどこにあるのか?

    『ぼくらの』という作品がなぜ倫理的なのかということを説明するためには、まず、鬼頭莫宏によるマンガ版の『ぼくらの』と現在放送中のアニメ版の『ぼくらの』との差異を明確にすべきだろう。 アニメの『ぼくらの』は、ネットで一時期話題になったように、監督自身が原作のマンガとは別の方向性を打ち出すことを明確に表明していて、かつ、原作のマンガがまだ終わっていない以上、どこかで独自の結末をつけざるをえない状態になっている。アニメは、現在放送中なので、最終的にどのような結末を描き出すのか(どのような結論を提出するのか)はまだ分からないわけだが、現在までのところで、この作品が原作のマンガとどのような点で異なっているのかということについては、かなり明確に、描き出すことができるように思える。 もちろん、アニメとマンガとの相違点は非常にたくさんある。しかし、根的な違いはどこにあるのかと考えてみれば、それは、まさに、

    metamorphosis 『ぼくらの』と倫理的問題(その1)――アニメ版とマンガ版の違いはどこにあるのか?
  • 代替不可能なものの仮面を被る代替可能なもの - metamorphosis

    最近のアニメ作品やその他のサブカルチャー作品を見ていて疑問に思うことがある。それは、ある種の共同体主義的な価値観が過度に肯定されている点である。ある種の共同体主義的な価値観とは、古き良き日の価値観とされているもの、ある地域の住民同士による助け合いの精神のことである(最近のアニメ作品では、例えば、『大江戸ロケット』の名前を上げることができるだろう)。 競争的関係と家族的関係 http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20070111#1168532200 この点に関して、僕は、以前、上記のエントリで、競争的な人間関係に対立する家族的な人間関係として、そのような価値観を位置づけた。そして、それから、競争的関係の行き詰まりを打開する道を探るために、家族的関係を描いている作品をいくつか検討していったわけだが、こうした作品から、十分にその可能性を汲み出すことはできなかった。 そこで

    代替不可能なものの仮面を被る代替可能なもの - metamorphosis
  • metamorphosis-『涼宮ハルヒの憂鬱』における二つの文化祭――日常生活を分節化するものとしての学校行事

    前回は、未来や過去といった個人史の時間軸に沿う形で、節目の時を問題にした。過去が現在に介入してくる仕方は、非常にたくさんある。ノスタルジーという形で、過去が現在に介入してくる仕方は、主体のポジションの変化をもたらす。これは、パースペクティヴの変化と言ってもいいが、つまるところ、物事を見る見方が変化するわけである。このことが、記憶の想起をもたらすと考えられる。つまり、ある観点に立つということは、同時に、何かを視野の外に置くということであり、その視野の外に置かれたものが忘却の対象となった記憶であると言える。それゆえ、ある観点から別の観点へと、主体のポジションが変化すれば、同時に、忘却の対象になったものも変化する、ということである。これがノスタルジーのメカニズムであるだろう。 過去と現在が、ある種の対応関係を結ぶという、そのような形で、過去が現在に介入する仕方もあることだろう。現在の出来事の意味

    metamorphosis-『涼宮ハルヒの憂鬱』における二つの文化祭――日常生活を分節化するものとしての学校行事